柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

米の廃棄ロスをなくすには

新型コロナウイルスの影響で、お米の消費量が減っているそうだ。

 

飲食店から客足が遠のいたり、営業を自粛したり営業時間を短縮したりしていることを思えば、お米を炊く量は減っていることが想像できる。

 

常に、周囲ではステイホームや外食控えで自炊が多くなったことで「家でのお米の消費量が増えた」という声を数人から聞いた。

 

人口は変わらないのに全体のお米の消費量が減ったのはなぜか。

 

自宅では炊飯しないという人もいるという理由もあるけど、一番な理由は飲食店での廃棄ロスが減ったから、らしい。多くの飲食店に米を卸している米屋から教えてもらった。

 

非常に複雑な気持ちになる。米の消費が減ることは悲しい。飲食店や米屋や米農家が苦しむのは悲しい。しかし、米の廃棄ロスが減るのは嬉しい。

 

根本的に何かがおかしいと思ったのは、米農家の反応だ。米を廃棄されてしまうことを悲しむ農家もいるが、米の廃棄ロスはありがたいと話す農家もいた。とは言え、前者も後者も米を一生懸命に作っているし、少しでもおいしく高品質になるように研究しているし、自分が作った米には思い入れもある。米の廃棄ロスがありがたいと話すのは、そう以外経営が立ち行かなくなってしまうからだ。

 

米を作りすぎていると言う人もいると思う。しかし、米の消費減に合わせて生産量を減らしていくのではなく、生産した米がはけて行くように米の消費が増えてほしい、と私は思う。

 

米を中心とした日本の米食文化や田んぼの風景を将来続く繋いでいきたいと常々願っているが、たとえなんとか繋がっていったとしても、それが米の廃棄ロスのおかげというのはあまりにも悲しい。

 

朝食がバイキング形式のホテルに泊まると、「余ったごはんやおかずたちはどうなるんだろう…」といつも気になる(ちなみに大抵ごはんは大量にどかんと炊かれていて、パーティーサイズのアイスを削るようにごはんがよそられてしまっているので、しゃもじでほぐしてからよそる。少しでもごはんの状態を良く保つために、自分がよそった後も次の人のために少しほぐす)。

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ホテルの朝食バイキングのごはん。大量炊飯ってむずかしいよね…といつも思う。

ごはんをおかわりに行くと、最初によそったときよりは減っていても、まだまだ底が見えない。従業員の人たちがまかないで食べているのだろうか。あるいは廃棄されてしまうのだろうか。まさかホテルのレストランのランチやディナーで出されたりしないよなあなどと、ごはんの行方がいつも心配になる。

 

なるべく余らないように炊飯すればいいのに…と思うが、以前に定食屋が閉店する1時間前に入店したところ、「ごはんがもうないので麺のメニューしかできないんです」と言われてめちゃくちゃショックだった。定食屋に着くまでの間、玉子丼にするか目玉焼き定食にするかを悩んでウキウキしていたのに。

 

米が食べられないのでせめて鵺米を食べようと餅入りの鍋焼きうどんを食べたが、店を出た後も夫に「なんでごはんがないんだよ〜」としつこく愚痴をこぼしていた。

 

こういう客がいるから飲食店はごはんを多めに炊くんだよね。廃棄ロスを減らすためには、まずは客が完売に寛容になることが大事だと反省したのだった。

「手抜き」が料理の手間を奪う

料理レシピを検索していて作ってみたい料理を発見しても、材料に「めんつゆ」と書いてあると断念せざるを得ない。うちにめんつゆはないからだ。
 
時短や簡略化は悪いことではない。めんつゆの使用は個人の自由であり、めんつゆや惣菜や冷凍食品などをフレキシブルに使おうという業界やメディアからの発信は、多くの人たちの心を軽くしてくれていると思う。
 
ちなみに私はいま田舎に住んでいるが、田舎の中高年層はめんつゆを使う人が特に多いような気がしている。
 
先日、同じ町内に住む同世代の女性からこんな話を聞いた。
 
彼女は私と同様に料理にめんつゆを使わない。ところがご近所のおばさまから、料理に使うめんつゆを切らしてしまったから貸してほしいと言われ、麺用に手作りしためんつゆを貸した。
 
すると、しばらくしてから貸した手作りめんつゆを手に戻ってきて、「このめんつゆはダメなめんつゆだ」と言って返されたそうだ。
 
もしかしたら自家製めんつゆは料理に使うには薄かったのかもしれないが、それよりも「料理用のめんつゆは家庭に常備されているものである」とこのおばさまが認識していることに驚いた。
 
郷土料理や地域の家庭料理においても、すでにめんつゆ必須のレシピが多数存在する。作り方を聞いて「めんつゆ」と言われると、郷土料理や家庭料理の魅力である多様性が失われてしまっているように感じられて残念な気持ちになる。めんつゆがなくては料理が作れないのは不自由感もある。
 
繰り返すが、時短や簡略化は決して悪いことではない。ライフスタイルは人それぞれだからだ。家庭環境や仕事環境や価値観などによって手間を省こうが、手間をかけようが、自由だと思う。
 
でも、最近はやたらと時短や簡略化ばかりを善とする雰囲気があり、めんつゆに感じるような居心地の悪さがある。
 
なぜ時短や簡略化ばかりを善とする声が多くなっているのか。その理由は、家庭での家事負担のアンフェアさにあると思う。最近は、冷凍餃子を「手抜き」と言ったり「ポテトサラダくらい作ったら」と言ったりする男性がいるそうで、ツイッターで話題になっていた。
 
育児や家事などをしながら餃子を作ったりポテトサラダを作ったことがない男性の妄言だと思うが、こういう男性がいるからこそ、時短や簡略化を推奨する声が増えてきた側面もあるのではないだろうか。めんつゆや冷凍食品や惣菜の普及が今後ますます加速していくと、自分で料理に手間をかけて作ることに価値を置く人が絶滅危惧種になってしまうかもしれない。
 

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わが家のポテサラの具材はキュウリのみだったりニンジンのみだったり、たまにキュウリとニンジンの両方が入っているだけ。生タマネギと肉は苦手なので入れない。自分では「手抜き」と言うが、「手抜きだね」と言われたらちょっとムッとするかも(写真はフリー素材)

料理に手間をかけることばかりが善だと押し付けるつもりもないし、私も育児中のためなかなか料理に手間暇をかけられないが、それでも食材の命をいただく「料理」という作業を大切に思う価値観は持ち続けていたい。
 
きっと多くの人たちが忙しい日々の中、理想と現実のあいだで葛藤しながら料理しているんだろう。
 
「手抜き」という想像力に欠けた発言こそが、料理に手間をかけることを大切に思う価値観を台所から奪っているのだと気づいてもらいたい。

禁酒中の食事

授乳中につき禁酒中。妊娠発覚時からお酒を飲んでいないので、かれこれ1年7ヶ月にわたり禁酒が続いている。

 

禁酒してからは外食への興味が薄らいでしまった。

 

料理はお酒を飲むからおいしい。そうでなければ口の中が落ち着かない。あるいは、味付けされた料理を食べた後に、ごはんを食べて口の中を落ち着かせたい。

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そういうわけで、おかずを食べてからごはんを食べて口の中もお腹も落ち着く定食屋は禁酒中も愛することができている。

 

ならば、イタリアンでは料理を食べた後にパンを食べたら良いのでは?と言われそうだけど、パンはダメだ。パンも塩味がある。パンを食べたらワインを飲まなければ口の中が落ち着かない。

 

そんなわけで、リゾット、パエリア、炒飯といった味付けされた米料理も、禁酒中は食指が動かない。味付けだけでなく、オイリー感をお酒で洗い流したいのだ。その役目はペリエでは物足りない。

 

カレーもあまり欲さない。カレーはライスがあるじゃないか!と言われそうだけど、カレーはスーパーオイリー&スパイシーなためか、ビールの炭酸と苦味でシュワッと洗い流したい。

 

一方で、釜飯や炊き込みごはんはオイリー感がないので禁酒中でも食べたくなる。でも、お酒の代わりに白飯が欲しい。つまり、釜飯や炊き込みごはんをおかずに白飯を食べたくなるのだ。

 

義祖母の法事で懐石料理が出た時は辛かった。お酒を飲むために用意されたような料理が次々と出され、白飯は最後の〆まで出てこない。「すみません、白飯ください」という言葉を何度飲み込んだことか。

 

お世話になっている方に銀座の和食でご一緒させていただいた時は、ペリエとともにおいしい料理の数々をひたすら口に運び、心の中で悶絶しながら、心の中で流した涙とともに料理を飲み込んだ。

 

ちなみに夫は、「お酒はお酒、料理は料理」という人なので、この苦しみに共感できないらしい。私いつからお酒がないと食事を楽しめないようになってしまったのか。

 

とは言え、禁酒中でも定食屋を愛することができているように、自宅では、白飯、味噌汁、おかずの食事はお酒なしでも満喫している。お酒がなくても満足感が得られる白飯の受容感はすごい。

 

ちなみに、禁酒中の収穫は「夕食はお酒がなくても楽しめる」「一流のバーはオレンジジュースですらおいしい」という気づきを得たことかもしれない。

 

まったく娘の存在は世界を広げてくれている。

インド人はカレーとごはんを混ぜるのか

37歳で納豆ごはんがおいしくなった」でも書いたけど、納豆ごはんの納豆をかき混ぜる派とかき混ぜない派が存在する。

でも、それだけではなかった。納豆とごはんをかき混ぜる派とかき混ぜない派もいることに気づいた。昔から納豆とごはんをかき混ぜない派だったので、納豆とごはんをかき混ぜることに思い至らなかった。

 

納豆だけでなく、カレーライスもカレーとごはんも混ぜる派と混ぜない派もいる。私は混ぜない派なのだけど、日本では混ぜる派と混ぜない派はどちらが多いのだろうか。そして、インド人は混ぜる派と混ぜない派のどちらが多いのだろうか。

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10数年前に一人でインドに行った。たしか24歳の頃。いくつかの食堂でカレーを食べたけど、必ずスプーンがついていたのでスプーンでカレーを食べた。もちろんごはんとカレーを混ぜずに。

 

しかし、鮨は手で食べるほうがおいしいように、カレーも手で食べたほうがおいしいのではないかと思っていた。

とは言え、このパラパラとしたごはんとサラサラとしたカレーをどうやって手で食べるというのか。チャパティならばサラサラカレーをどうにかすくったりぬぐったりして食べることができるだろう。でも、このパラパラごはんとサラサラカレーをどうやって食べろというのか。

 

試しにちまちまと手でつまんでみたが、永遠に食事が終わらないような気がした。

 

結局一度もカレーを手で食べることができないまま、数日間滞在したベナレスを離れる日がやってきた。まずはデリーに向かい、翌日には成田空港行きの国際線に乗る。

 

ところが、デリー行きの国内線が欠航になった。周りの客たちはあきらめて帰っていく。しかし私はこの便でデリーに行かねば成田空港行きの国際線に間に合わない。青ざめた。

 

職員に詰め寄るも、焦れば焦るほど職員の英語が聴き取れず、不安で涙がぼろぼろとこぼれた。若かった。

 

すると、他の職員や客たちが集まってきた。ぽんぽんと肩を叩いてなだめてくれる客もいた。インド人は優しい。そして、職員と客に促され、職員が運転する車に数人の客たちと一緒に乗せられた。

 

夕方になり日が落ち始めている中、車は住宅街を走った。一人また一人と客が降ろされていく。客たちはきっと自宅に送り届けてもらっているのだろう。家では家族が待っているのだろうか。そして、夕食はみんなでカレーを食べるのだろうか。私はどこへ行くのだろうか。

 

そして、ついに客は私だけになった。日はすっかり落ちている。もう流れに身を任せるしかなかった。

 

車は細い路地裏で止められ、運転していた職員から降りるように促された。暗い建物の外階段を、運転手の後について登っていく。扉を開けた先は、これまでに行ったインドのどの場所よりも明るく、小さくも立派な部屋が広がっていた。ツヤツヤと光った重厚感のある机の向こうに座っているのは、ふくよかな男性。その背後には世界地図。なんだか不思議な世界に迷い込んだような気分だった。

 

男性は職員と少し会話をしてから、私に再び外へ出るように言った。言われた通りに外階段を降りると、1台の車が止まっていて、運転席と助手席に2人の男性が乗っていた。年齢は私と近いように見える。運転席にいた男性はにっこりと笑うと「乗りなよ」とジェスチャーで促した。

 

普通に考えたら安易に乗って大丈夫なのかと心配になるけど、車に乗るように職員からも促されたので、あのオフィスのような場所にいたふくよかな男性は航空会社のエライ人なんだろうと思うことにして、車に乗り込んだ。

 

彼らは長距離電車の発着駅へ連れて行ってくれた。そこから12時間かけてデリーへ向かえば、成田空港行きの国際線に間に合うらしい。ようやく希望が見えてきた。

 

しかし、電車はまさかの8時間遅れ。さすがインド。彼らは電車に乗るところまで見届けると言ってひたすら一緒に待ち続けてくれた。

 

電車を待っている間に夕食をとることにした。彼らが連れて行ってくれたのはザ・ローカル食堂。これまでに行ったインドのどの場所よりも薄暗かった。そして、これまでにインドで食べたどのカレーよりもサラサラとしていた。これは手で食べる難易度が高そうだ。

 

そこで私は意を決して彼らに質問してみた。カレーをどうやって手で食べるのか、と。

 

すると、運転席にいた彼が、自分の皿にのっていたカレーとごはんを盛大にぐちゃぐちゃとかき混ぜてから、手際良く野球ボール大(以上ソフトボール大以下)にまとめて、大きく開けた口の中へ放り込んだのだ。

 

なるほど。これならささっと手際良く食べられる。早速真似してカレーとごはんを混ぜて、口に入りそうな大きさの球状にまとめてから、大きく開けた口に放り込んだ。口に入れるのがやっとでなぜか味のことをあまり覚えていない。

 

そして、手でカレーとごはんを食べるインド人は例外なくカレーとごはんは混ぜる派であると確信した。そうでなければ食べられない。

 

飛行機にはなんとか間に合った。その後、サラサラカレーとパラパラごはんを手で食べるインド人に出会う機会がないのだが、果たして彼らの食べ方はインドでポピュラーなのだろうか。日本人の納豆ごはんやたまごかけごはんは人によって流儀がさまざまなように、インド人のカレーも実は流儀がさまざまなのではないだろうか。いつか確かめに再訪したい。

 

ちなみにカレーとごはんを混ぜて食べざるを得ない時は、混ぜた〝カレーごはん”をおかずに白ごはんも食べたい。結局はカレーに浸食されていないクリーンな白ごはんも食べられれば、混ぜても混ぜなくてもどっちでもいいのかもしれない。

37歳で納豆ごはんがおいしくなった

かつてはぶっかけ飯が苦手だった。

 

白ごはんを汚したくないという思いが強すぎて、丼ものを避け、たまごかけごはんや納豆ごはんなども食べなかった。

 

蕎麦屋で玉子丼を食べるときに店の人にお願いして、ごはんと具を別々にしてもらっていたこともある。我ながら嫌な客だ。

 

ちなみに、たまごかけごはんを食べていなかったのは、子どもの頃はアレルギーで生卵が食べられなかったという事情もある。大人になってから食べられるようになったのでたまごかけごはん歴は実はとても短い。

 

そして、ごはんに納豆をかける納豆ごはんは食べなかったけど、ごはんに納豆をかけない納豆ごはんは食べていた。つまり、おかずを食べてからごはんを食べて口中調味するように、納豆を食べてからごはんを食べる。さらに、納豆をかき混ぜると箸が汚れるのでかき混ぜない。大粒納豆を好み、納豆の粒感を楽しむ。

 

完全に自分基準で白ごはんの美にとどまらず食卓の美を追求していたので、納豆をパックのまま食卓に置くのは言語道断。必ず器に移して食べていて、これは今でも変わらない。

 

しかし、年齢とともにこだわりがゆるやかになってきたためか、数年前から丼ものやたまごかけごはんや納豆ごはんなどのぶっかけ飯を食べるようになった。

 

それでも汁だくは苦手で、たまごかけごはんは卵液に浸食されない白ごはんの部分をキープしながら食べる。納豆ごはんはあくまでごはんの上に納豆をのせるだけで、決してごはんと納豆を混ぜたりしない。納豆をごはんにかけるようになったことで、これまで食べていた大粒よりも、米粒と馴染みのいい小粒や中粒を食べるようになった。

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先日、故・渡辺淳一氏のエッセイ「これを食べなきゃ わたしの食物史」を読んだ。

 

そこにはこんなふうに書かれている。

「不満なのは、納豆についているタレである。(略)概してどれも甘すぎる。あんなものを付けるくらいなら醤油のほうがはるかにいい。あれほどタレが甘くては、納豆本来の風味が損なわれてしまう。」

「それにしても不思議なのは、朝の納豆は旨いのに、昼から夜になるにつれて、次第に精彩を失うことである。といっても、納豆の味そのものが、そう変わるはずはないから、納豆はやはり朝飯に似合う、ということになる」

 

読みながら、そうだそうだ!と心の中で叫んだ。

私は付属のタレをいつも捨ててしまう。納豆ごはんにはシンプルな醤油が一番だと思う。

そして、納豆ごはんは朝食以外に食べようとは思わない。一時期、テレビや雑誌で「納豆は朝よりも夜に食べたほうが健康に良い」などと言われていたようだけど、たとえそれが本当だとしても健康のためにわざわざ納豆ごはんを夜に食べようとは思わない。晩酌の締めにたまごかけごはんを好んで食べていた時はあったけど、締めに納豆ごはんを食べたくなることはこの先もないように思う。

 

渡辺淳一氏はさらにこんなふうに書いていた。

 

「(父は納豆を)箸で掻きまぜ、大量の糸を引くようになったところで醤油をかける。この初めに充分掻きまぜるのが、納豆を美味しく食べるコツで、父の大きな手で掻きまぜられると、いかにも美味しそうに見えたものである。」

 

文章を読むだけでも、かき混ぜた納豆がおいしそうに感じられる。

食通で知られる北大路魯山人が400回以上も納豆をかき混ぜていたらしいという話は知っていたし、納豆好き人口のうち納豆をかき混ぜる派はおそらく8割超ではないだろうかと思っていたけど、どうしてもかき混ぜた納豆の見た目が好きになれなかった。

 

でも、これほどまでに納豆感覚が近い渡辺淳一氏が言うならばかき混ぜてみようかな…と思い始め、早速かき混ぜてみた。箸が汚れるのは嫌なので、別の箸を使って。

 

食べてみると、見た目はともかく、食べ心地は悪くなかった。糸が泡のようにふわふわと引いた納豆は旨味をより感じられた。

 

長年のこだわりを壊してみると、新たなおいしさに出会えることもある。柔軟であることの大切さを納豆ごはんに教えてもらった。

皺々で色あせたグリンピースのごはん

初めてグリンピースごはんを食べたのは小学生の頃。家庭科の授業の調理実習だった。

 

その少し前に読んだ漫画の中で「グリンピースごはんが嫌い」な登場人物がいたので、きっとグリンピースごはんはピーマンみたいにおいしくないんだろうと思っていた。ピーマンと同じ緑色というだけで警戒していた。

 

ところが、食べてみるととてもおいしい。薄緑色で皺々としたグリンピースが入ったごはんは、グリンピースの風味と塩気が感じられ、おかずがなくてもグリンピースごはんだけでぱくぱく食べられた。

 

大人になると、グリンピースごはんの作り方は大きく分けて二つの選択肢があることを知った。一つは、調理実習の時と同じようにお米とグリンピースを一緒に炊く方法。もう一つは、グリンピースを塩茹でしておいて、炊き上がったごはんに混ぜ込む方法。

前者はグリンピースの風味が感じられるが、グリンピースは皺々になり鮮やかな緑色は色あせてしまう。

後者はグリンピースの風味が薄くなるが、グリンピースの見た目はツヤツヤぷりぷりとして鮮やかな発色になる。

 

先日、地元のグリンピースを購入してグリンピースごはんを作ってみた。悩みに悩み、2つの調理法の折衷案に落ち着いた。具体的に言うと、塩茹でしたグリンピースの茹で汁を冷ましてお米の炊飯水の一部に使い、ごはんが炊き上がってからグリンピースを混ぜ込んだ。

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それでもやはりグリンピースの風味が弱かった。でも、それだけではない。一番の残念な点は、グリンピースがツヤツヤぷりぷりで色鮮やかなことだった。

 

私にとってのおいしそうなグリンピースごはんは、ツヤツヤぷりぷりで鮮やかなグリンピースではなかった。心が踊らなかった。私は皺々で色あせたグリンピースのごはんにおいしそうだと感じていたのだと気付いた。

 

皺々で色あせたグリンピースのごはんを食べると、小学生の頃の調理実習で作ったグリンピースごはんを思い出す。

三角巾とエプロンをつけて、微妙な匂いの家庭科室で、班のみんなで不慣れな手つきで文化鍋で炊いたグリンピースごはん。

なぜあんなにおいしく感じたのだろう。ガスを使って文化鍋で炊いたからなのか、炊きむらがひどすぎた給食のごはんが学校飯のデフォルトだったからなのか。それもあるけど、自分たちで米を測り、米を研ぎ、水を測り、火加減を見ながら炊いたことによって、おいしさ度数がぐんと上がったのだと思う。

 

子どもたちにお米のおいしさを知ってもらうためにはお米を食べる機会を増やすことだけでなく、自分で米を測り、米を研ぎ、水を測り、火で炊くという経験がとても重要だと感じる。

 

以前に静岡県の安東米店というおもしろい米屋さんが「炊飯器の中はブラックボックス」と言っていた。つまり、炊飯器の中で何が起こっているかわからない。スイッチオンでピーピー鳴ったら炊けている。

 

炊飯器は便利で炊き上がりが安定するけど、自分で米を炊いた実感を得られづらい。多少焦げても、水加減を間違えても、火を使ってアナログに炊き続けていくと、おいしく炊けた時の感動はスイッチオンの数倍になる。

素麺をおかずにごはんを食べる

夏場になると大量の素麺をいただくことがある。すると、「素麺がたくさんあるから昼食は素麺にするか」となりがちだ。

 

もしもその家庭が朝はパン派だとしたら、昼に素麺を食べると、朝も昼も小麦食になる。もしも夕食にパスタやラーメンを食べたら1日に1度もお米を食べないことになる。

 

「素麺が食べたいから素麺にする」ならば何も言えないけど、「素麺があるから素麺でいいか」となってしまうことで、お米を食べる頻度が減ってしまうのはちょっと残念。

 

ならば、素麺を主食にするのではなく、素麺をおかずにすればいいじゃないか!と、ひらめいた。

 

これまで「素麺おかず」は素麺チャンプルーしか作ったことがなかったけど、実は瀬戸内海沿岸地域などの郷土料理「鯛素麺」をおかずに白ごはんを食べてみたい…と以前から常々思っていた。わが家は夫がベジタリアンなこともあり、茄子と油揚げで素麺を煮て「茄子素麺」を作ってみた。

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これがすこぶるおいしかった。なぜ私はこれまで素麺を素麺のまま食べることしか知らなかったのか。そう悔やむほどおいしかった。

 

たしかに暑い夏はつるつるとした麺類が食べたくなる。私も昨年の夏は昼食に素麺を作って食べる日もあったけど、やはりお米がないとお腹が落ち着かず、素麺におむすびを添えていた。この場合、素麺がメインでおむすびは付け合わせの立ち位置だ。

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でも、「素麺おかず」はあくまでもお米が主食になる。〝つるつる欲求〟も満たされる。

暑くて食欲がわかない時に無理やり白ごはんを食べようとは言わないけど、この「素麺おかず」をつるつると食べれば、自然と白ごはんが欲しくなるに違いない。

 

ごはんは夏の主食の座を素麺に奪われがちだったけど、素麺をおかずにするだけでごはんが主食の座をキープできる。素麺、なんていいやつなんだろう。