柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

お米の「研ぎ」を検証してみた

数年前に「お米の研ぎ」について実験したのだけど、ブログに書いていなかったので、記録として書いておこうと思う。

 

かつて精米技術が発達していなかった時代は、お米は「研ぐ」ものだった。

でも、「現在はぬか切れが良いため、さっと米を泳がせて『洗う』感覚で十分!」と言われている。

 

しかし、どの程度洗うかは、米質次第だと思う。精米が悪くて肌ぬかが付着している場合や、精米歩合がお米に合っていない場合、あるいは精米してから時間が経ち過ぎてしまった場合は、もう少し丁寧に洗う必要がある。

以前にある取材で、顕微鏡で拡大した米肌の細胞の状態を見て、精米と洗米によって、米肌が大きく変わることを知り、それ以来、米肌の細胞の様子をイメージしながらお米を洗うようになった。

 

とは言え、肌ぬかがとれているかどうかを目で確認することはできない。炊飯してみて古米臭を感じたり、表面のツヤが悪いように感じたりしたら、洗米時に両手の手のひらで優しくこすってぬかを取るように洗う必要がある。ただし、この作業は最初だけ。あとは、2、3回ほど水を替えるだけで良い。ちなみに、お米は薄いワイングラスのごとく“繊細な割れもの”として丁寧に扱う必要がある。

 

若干の古米臭が気になった米を、この洗い方で再度炊飯してみると、古米臭が消えておいしく食べられるようになった。おそらく、米の表面に付着した肌ぬかが酸化していたのだと思う。香りや表面のツヤだけでなく、舌触りや食感まで良くなった。さらにお米の表面だけが溶けて芯が残ったような“外軟内硬”だったごはんが、研ぎ方ひとつでふっくらと炊きあがった。

 

米を洗う時に注意したいのは、決して力を入れないこと。ごしごしこすると米が割れてしまうため洗米は慎重に。洗米の時点で割れていなくても、目に見えない小さなひびが入ると炊飯時に釜の中で割れてしまい、べちゃっと口当たりの悪いごはんに炊きあがってしまう。また、お米と水の温度差で炊飯中の割れにつながる可能性もあるため、お米の保管は冷蔵庫、洗米の水は冷水を使うとベスト。ちなみに、雪国の現在(1月)の水道水は6.7度、冷蔵庫に入れておいた水は7.2度だったので、水道の浄水でも大丈夫だけど、夏場はできれば冷蔵庫に入れておいた水を洗米に使ったほうがいいと思う。

 

 

水を変える回数についてはいろいろな説があるけど、お米ごとに違うため、回数で決めるよりは、そのお米の様子を見て判断したほうが良い。旨みよりもすっきりとクリーンな味わいにしたい場合は濁らなくなるまで水を替えても良いのかもしれないけど、個人的にはお米のポテンシャルを引き出す炊き方ではないと思っている。米の旨みを残すためには、多少の濁りは旨みととらえ、ある程度の肌ぬかが取れたであろう時点で洗米をやめたほうが無難だと思う。

 

そして、実際に洗米を変えて炊き比べてみた。

 

一つは、水の中で優しく5回、両手の手のひらでこすり合わせて洗った後に、水を3回変えた。水の濁りはほぼなくなったが、若干の濁りは残った。

 

もう一方は、水の中で優しく15回、両手の手のひらでこすり合わせて洗った後に、水を何度も変えた。何度変えても若干の濁りが取れないため、途中で再び10回、両手の手のひらでこすり合わせて洗った後に、何度か水を変えると、ようやく水が透き通った。

 

食べてみると、水に多少の濁りを残したほうは、ふっくらとして、米の表面におねばがあり、舌に乗せたときの甘み、のどで感じる旨みがあった。

 

水が透き通るまで洗ったほうは、舌触りはなめらかだったが、ふっくらとした炊きあがりではなく、米の表面がぬめっと溶けているような感じ。味は淡白でスッキリ。旨みがなく、お米というよりも、水を食べているようで、時折、水の味が金属のような味に感じられた。冷めると、米粒が崩れてダマになってしまった部分もあった。

 

成分分析はできないけど、手のひらでこすり合わせて浮いた肌ぬかは、2回も水を変えれば取れると思われるため、何度も水を変えても濁るものは、さすがにでんぷんではないだろうか…と感じられる食べ心地だった。研ぎ過ぎ、水の替え過ぎは、米のうまみ層のでんぷんも流してしまうのではないだろうか。

 

というわけで、成分分析をせずとも、どこまでが米ぬかで、どこからがでんぷんを流しているのか、探ってみた。

 

水に3合の米を入れて、まずはさっと流す。これが1回目。その後、新しい水をたっぷりと入れて、ささっと手で軽くかき混ぜて流す。これが2回目、その後、3回目、4回目、5回目と水を替えていく。すると、2回目、3回目の水は白色に濃く濁った。若干黄みがかっている。4回目からは濁りは薄くなり、黄みはなくなった。そのまま1日置くと、2、3回目の水には底のほうにたっぷりと粉が溜まっていた。4回目になると粉は少なくなり、5回目になると粉はほんのわずか。6回目の水になると、水は薄く白濁りしていても、粉はまったく溜まっていない。

 

今度は、1度水をさっと流した後に水の中で米を優しく両方の手のひらで5回こすり合わせてから、何度か水を替えてみた。すると、2回目の水だけが黄みがかった白色に濃く濁った。そして、底に溜まる粉を見ると、4回目はわずかに、5回目の水は薄く白濁りしているものの、まったく粉は溜まっていない。

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この結果から推測できるのは、米の表面についた肌ぬかは、洗水の2、3回目にほぼ流すことができ、その後に水を白く濁らせているのはでんぷんではないだろうか…ということ。

 

ただし、精米によって肌ぬかの残り方、水の濁り方はずいぶん変わる。ちなみに今回は、米店で精米した米ではなく、大型工場で精米されたJAの米をあえて使ってみた。

 

たくさん研ぐことで、米内部のでんぷんの甘みは感じられても、表面の旨みを落としてしまっては、味気ないごはんになってしまう。以前に青果卸売会社の野菜ソムリエから「果物は甘ければ良いわけではなく、酸味とのバランスが大切」という話を聞いたことがある。お米も甘さだけではなく、旨みや若干の雑味とのバランスが「おいしさ」につながる。だからこそ、お米の研ぎ過ぎはせっかくの米の持ち味を落としてしまうと感じている。

「たけや」のおむすび

郡山市にある「たけや」におむすびを買いに行ってきた。

 

以前から気になっていたけど、なかなか行く機会がなかった。ようやく機会が巡ってきたので、張り切ってまずはネットで下調べ。

 

すると、「並んで買えた」という人もいて、人気がうかがえた。たしかに到着すると数人が店の前で並んでいる。「人気」と聞くと「本当に?」と思ってしまうひねくれた性格なのだけど、軒先の「おにぎり だんご たけや」と白抜きされた青色のれんに心を掴まれた。おむすびをまだ食べても見てもいないのに期待が高まる。

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店内に入ると、おむすびよりもおはぎや団子が店のセンターを陣取っていた。壁側の棚にはおむすびがずらり。おはぎや団子は冷蔵のガラスケースに入っているけど、おむすびが並ぶ棚のガラス戸は開け放し。ごはんか乾かないか心配だけど、たしかに次々と売れていくから開けておきたいよね。冷蔵のガラスケースからでなく棚からおむすびが取り出される図もとてもいい。

 

白い割烹着姿の女性従業員たちがきびきびと動いていて、店の狭さに対して従業員が多いように感じた。恵比寿の定食屋「こづち」や神田淡路町の「神田志乃多寿司」など、昔ながらの良い店は従業員の方がたくさんいる印象なので、この店もきっと良い店なんだろうなあと思った。

 

その予感どおり良い店だった。忙しそうな女性従業員におそるおそる「味ごはん(炊き込みごはん)はお肉入っていますか?お肉食べられないんですが…」と尋ねると、大袈裟なジェスチャーを交えて「大丈夫!」と言った後に具材をすべて教えてくれた。とても忙しそうなのに、とても丁寧に。

 

肉は入っていなかった。なんだかほっとした。ほっとしたのは肉が入っていなかったからだけではなく、女性従業員の「大丈夫!」の受け応えにほっとしたのだと思う。

 

選んだのは、生姜、高菜、鮭、味ごはんの4つ。夫は生姜の他に好物のいなりずしやおはぎなどを食べた。

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われわれの意見は「ごはんだけを見るとイマイチ。だけど、おいしい」。そして夫は「今まで食べたおむすび屋の中で一番うまいと思った」と言った。なんとなくその意味がわかる。

 

夫がおむすびに求めるものはごはんのおいしさではなく、店の雰囲気も含めた、おむすびからそこはかとなく漂うもの。それは何なのか、夫と一緒に言語化を試みた。懐かしさ?安心感?素朴さ?どれも間違いではないけど、どんぴしゃりでもない。なんかいいよね、ということなのだ。

 

それでも私のナンバーワンおむすびはやはり別の店。でも、このお店もナンバーワンだと思った。明らかに矛盾しているけど、ナンバーワンは一つではない。

 

その日以来、「郡山」と聞くと「たけや」と連想してしまうほど、「たけや」に恋してしまった。

炊飯と育児

先日、ある農家のお米を長時間浸漬してから炊飯器の早炊きモードで炊いたら甘さと旨みを感じた。

 

数日後にそのお米を長時間浸漬してから土鍋で炊いたら甘さが感じづらくなるほどの強烈な旨みを感じた。舌に触れるだけでおねばが旨い。そして、飲み込んでからも喉だけでなく口の中全体に旨みの余韻が残る。

 

炊飯方法の違いでお米の表情が変わることは分かっていたけど、こんなにも違いがあるのかと改めて驚いた。

 

現在1歳の娘の育児中で頭が育児モードになっているせいか、炊飯は育児に似ているなあと感じる。

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炊飯器の早炊きモードで炊くと、良くも悪くもその子(お米)の持ち味が出る。長所も短所もありのままが顔を出す。

 

炊飯器の普通炊飯モード(白米モード)や最高炊きモード(極みモードなど)で炊くと、いわゆる“優等生”になる。つまり、誰が見ても(食べても)だいたい「良い子(おいしい)」と感じる。しかし、それはその子の短所も含めすべての持ち味を引き出すというよりは、親や先生(メーカー)が良い子(おいしい)と思う子(ごはん)なのである。

 

そして、土鍋で炊くと、その子(お米)のポテンシャルがぐんと引き出される。

 

米質によって一概ではないので、いずれも「傾向がある」ということだけど。

 

というわけで、新しいお米を購入した時はまず早炊きをしてみてから土鍋で炊いてみることにしている。そのお米を知るためには、まずはお米のありのままと向き合ってから、そのポテンシャルを探るという流れが良いように思う。

 

育児と炊飯は試行錯誤の繰り返しという点でも、わからないことだらけという点でも似ている。そして、娘もお米もすでに私の人生においてかけがえのない存在になっている。

「名飯部類」からの米食考・その2

前回に引き続き、江戸時代後期のご飯の専門書「米飯部類」を読んでいて最も興奮したのは「例言(そえごと)」にのっていたこの一節。

 

「諸米飯を炊くとき、米を選ぶことに最大の努力を払うこと。魚・鳥などあぶら気の強いものを入れるときは、性の軽い、味もあっさりした米をよくつき、精白して使う。野菜・豆類など淡白な品を入れるときは、性が強くてうまいものを使うようにする」

 

これについてはさらに詳しく書かれている。

 

「たとえば魚・鳥の名飯には北国米(加賀、柴田、村上米などを使用、たとえ性が軽く味が淡白でも、秋田、津軽米などは使わぬこと)をよくつき、精白して使うのがよい。野菜・豆類の名飯には西国米(肥後、筑前、中国、備前米など)を同様によく精白して使う。魚・鳥は持ち味が濃厚なので、米は軽い感じのものが合い、野菜・豆類は淡白だから米の味のしっかりしたものがよい。もし、米の産地・性質を考えずに使うと、味わいの片寄ったものになってしまう恐れがある。だから、米を選ぶことが第一なのである」

 

江戸の人たちが米料理ごとにお米の使い分けをしていたことに驚いた。お米(食糧)の安定的な確保という意味の豊かさと、文化的な豊かさの両方が垣間見える。

 

そして、現代を生きる私たちはお米(食糧)の安定的な確保ができているどころか、ずいぶん前から「米余り」の状況が続いている。しかし、使う具材によってお米を変えるという人はいったいどれくらいいるのだろうか。

 

「名飯部類」では「米の産地・性質」と書かれていて、ここで言う「性質」はおそらく栽培地由来の性質のことを言っているのだと思う。品種について触れられていないところが興味深い。

 

稲に詳しい農学者・佐藤洋一郎さんに以前に取材させていただいた際、こんなお話をうかがった。

 

「明治時代は4000もの品種があり、異名同種、同名異種と思われるものを整理しても約600種が残ったと言われています」

「明治・大正時代頃までは一つの品種の中に遺伝的にいろいろなものが含まれていました」

「当時は立派な品種だったものが、いまは当時の品種は『混ざりが大きい』とか『雑駁』などと言われている。つまり、品種とは時代によって位置づけが変わる社会的な存在なのです」

(季刊「自然栽培」vol.17ニッポンの米の可能性を探る。part1「コシヒカリ」は永遠のスーパースターなのか!?もっといろんな米があっていい! より)

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当時は「品種」というものが遺伝的にも概念的にも現在よりも曖昧だったのかもしれない。それでも、産地ごとの性質を考慮してお米を使い分けていた。江戸の人たちのお米ライフを見習うと、私たちはお米をもっと楽しめるのではないだろうか。

 

ちなみに以前にスペインでお米の取材をしたときに、スペイン人たちは「パエリアで使われるお米はこの品種が有名だけど私はこの品種が好き」「パエリアやカスエラにはこの品種」「パエリアにはこの品種、メロッソにはこの品種」というふうに作る米料理や好みによってお米を使い分けていた。

 

スペインの主食はパンで、お米料理はあくまで料理の一つらしい。日本はお米が主食なのだから、もう少しお米の性質に目を向け、お米の使い分けを追究してみると、お米を食べる人やお米を食べる量が増えるのではないだろうか。つまり、「適地適作」のように、お米も合う料理、合わせづらい料理がある。ベストマッチングができれば、お米がもっとおいしくなって、お米をたくさん食べるようになるのでは…と妄想している。

 

品種による使い分けはもちろんだけど、同じ品種でも生産者によって食味は異なり、同じ生産者の同じ品種でも栽培方法や田んぼによって食味が変わる。さらにお米とお米をブレンドしてみるなど、楽しみ方は無限大。そしてそれがおいしいかどうかは一人一人の好みによっても異なる。もっとお米を遊んでみると、未知なるお米のおいしさに出会えそう。お米の可能性はまだまだたっぷりある。

「名飯部類」からの米食考・その1

先日、Eテレの「知恵泉」を見た。

稲に詳しい農学者の佐藤洋一郎氏がご出演されていたので、これは見なくてはと久しぶりにテレビの電源をつけた。

 

番組で「名飯部類」という150種類ものお米の食べ方がのった江戸時代の本があることを知った。「豆腐百珍」の100種類よりも多い。白飯(佐藤氏の著書によると搗精技術が未熟だったため、“まだら米”)を食べられるようになったのは、江戸時代。しかも、農村ではまだいわゆる銀シャリにはありつけなかった。佐藤氏によると、日本人は「米食悲願民族」だったという。

 

番組を見た後、「名飯部類」を古書で手に入れた。

 

私はこれまで、海外でお米の取材をするほどに、白飯を楽しむ日本の文化の希少さを実感していた。世界ではお米の料理と言えば加熱時に調味をする場合が多く、たとえ水だけで炊いた白飯だとしても、味の濃いおかずをのせたり汁気のあるおかずをぶっかけたりする。白飯とおかずを別々に食べる「口中調味」は日本独自の文化だ。

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しかし、「名飯部類」には、具材と一緒に炊いたり、上に何かをかけたりのせたりしたごはんの食べ方が書かれていた。口中調味の歴史は意外と浅いのかもしれない。

 

この本には「名飯部類」だけでなく、「都鄙安逸伝」も収録されていた。「名飯部類」は江戸の豊かな食が垣間見える一方で、「都鄙安逸伝」は農村向けに飢饉の時のためのお米の食べ方が書かれている。つまり、少ない米で作れるかさ増し料理だ。さまざまな創意工夫に、制限の中で少しでも食を楽しもうとする人々の前向きさやたくましさが感じられた。

 

ちなみに、先日の新聞で、釜揚げ蕎麦が生まれた由来について「出雲の神在祭では屋台で茹でたそばを水でしめられなかったから」というようなことが書かれていた。祭りと飢饉とでは制限の度合いがあまりにも違うとは言え、制限された環境下から新たな食文化が生まれるというのは非常に興味深い。

 

冒頭の「知恵泉」によると、江戸に住む人たちの米消費量は1日5合。私は1日3.5合が基本で同年代の女性よりは多いかなあと思っていたけど、さらに1.5合も多いということか。

 

「名飯部類」の炊き込みごはんやお粥はかさ増し目的ではなく米料理を楽しむためだとしても、具材を入れたり水分を多くすると、どうしてもかさは増す。5合の体感量はもっと多そうだ。江戸の人たちは健啖家だったのだろうか。

 

とは言え、「江戸の街は肥満だらけだった」とは聞いたことがない。「お米は太る」と言う人たちもいるが、お米ではなく他のものが太る原因であることは1日5合の数字から見ても明らかではないだろうか。どうかお米のせいにしないでほしい。

玉子丼で白飯を食べる

玉子丼が好きだけど、以前は白飯の上に玉子とじをのせるのが好きではなかった。

 

白飯と玉子とじは別々に食べるのが好きで、蕎麦屋で玉子丼をセパレートしてもらったこともある。今思い返すと迷惑な客だ。

 

でも、今は白飯に玉子とじがのった玉子丼のほうが見た目やどんぶりのずっしり感に幸福感を覚える。そして、ただひたすら一つのどんぶりに集中できるという突っ走り感にも魅力を感じて玉子丼が好きになった。

 

ところが、注文して出てきた玉子丼が「つゆだく」だとたちまち気分が萎える。白飯は白飯として食べられる部分を残してほしい。甘じょっぱい玉子丼を白飯でリセットしたいし、たまに箸休めに白飯を食べたいし、最後のひとくちは白飯で終わりにしたい。玉子とじという料理の性格上、汁気があるのは重々承知しているが、どんぶりの底の白飯までつゆに浸っていると悲しい。

 

玉子とじに対する白飯の割合を増やして大盛りにしてみようかと思ったけど、店員さんが気を利かせたつもりで具やつゆも増量してしまいそうなのでやめた。良い方法はないかと考えてたどり着いたのは、玉子丼をおかずに単品白飯を食べること。先日、実際にやってみたら、甘じょっぱい玉子丼を白飯でリセットできたし、たまに箸休めに白飯を食べられたし、最後のひとくちは白飯で終わりにできた。

 

ちなみに、その時に食べた玉子丼は「サザエ丼」の名称で、サザエを玉子とじにしていた。神奈川県の江ノ島では「江ノ島丼」と呼ばれているらしい。そして、エビフライを玉子とじにしたものは神奈川県鎌倉市では「鎌倉丼」。

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玉子丼はタマネギを玉子とじにしたものが圧倒的に多いけど、近所の食堂では長ネギを玉子とじにしている。京都で食べた油揚げと青ネギを玉子とじにした「衣笠丼」もおいしい。他にも、油麩とじ丼、湯葉とじ丼、親子丼、カツ丼、ハイカラ丼、木の葉丼など、玉子とじの丼物はめちゃくちゃ多い。


なんでも玉子でとじておいしくしてしまう「玉子とじ」という料理はすごい。しかもそれを白飯にのせちゃうとはおいしいに決まっている。玉子とじ丼レシピを集めた本があったら是非とも欲しい。タイトルは「なんでも玉子とじ」とかどうだろう。

料理する乳児

白飯をおかずなどと一緒に食べて口の中で調味する「口中調味」は日本特有の食習慣である、と聞いたことがある。

 

たしかに海外に行くと、スープや具や調味料と一緒に火を通しているお米料理が多い。水だけで炊いた白飯だとしても、おかずをかけたりソースをまぶしたりして食べる「口外調味」だ。

 

子どもたちは、親が食事する様子を見て、自然と口内調味を身につけていくのだろうと思っていた。

 

でも、口内調味って本能的な部分もあるのかもはしれない。1歳の娘を見ていて、そう思うようになった。

 

娘は味噌汁が大好きだ。ごはんやおかずを食べなくても味噌汁ならば飲む。味噌汁のおかわりを欲しがることもあるので、味噌汁でお腹いっぱいになってしまわないように、食事の締めに味噌汁を飲ませることにしている。

 

先日、娘はほとんどおむすび手をつけなかった。しかし、味噌汁を飲み始めた娘は、おもむろにおむすびに手を伸ばした。そして、おむすびを一口食べると、まだおむすびが口に入っているうちに、また味噌汁を飲んだ。そして、またおむすびを食べ、また味噌汁を飲み…と繰り返した。そして、とうとう味噌汁とおむすびを完食した。

 

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口内調味を教えたわけではないので、おむすびの味を知り、味噌汁の味を知ったことで、「これはどうやら一緒に食べるとおいしそうだ」と感じるのだろう。

 

最近はおむすびを味噌汁の中へ放り込もうとする。なるほど「ねこまんま」はこうして生まれたのかもしれない、と小さな感動を覚えた。

 

先日は蒸したサツマイモと味噌汁でも交互に食べて口中調味を楽しみつつ、サツマイモを味噌汁の中に放り込んだ。そして、味噌汁に手を突っ込み、味噌汁に浸ったサツマイモを食べた後、味噌汁を飲んでいた。なるほど「サツマイモの味噌汁」はこうして生まれたのかもしれない、とまた小さな感動を覚えた。

 

料理が生み出されるのは経験や知識や感性の賜物だと思っているけど、まだわずかな食材や味付けしか体験していない1歳児でもその一端に触れているのだと感じさせられる。

 

料理が好きな人もいれば、好きではない人もいれば、得意な人もいれば、不得意な人もいる。でも多くの場合、「食べること=料理すること」になっているのかもしれない…と思えた。

つまり、何かしらの味の調整をしていれば、それは料理なのではないか、と。たとえスーパーの惣菜コロッケにソースをかけて白飯のおかずにすることは、ソースで調味をして、白飯と一緒に口内調味をするという2度の調味を行なっている。

 

これまで惣菜コロッケを買うことは料理ではない!と思っていたが、娘の食行動によって考え方が変わった。料理にはさまざまなレベルがあり、惣菜コロッケにソースをかけることや口内調味することは、コロッケを手作りすることやソースを手作りすることとは違うレベルの料理なのだ。

 

先日は娘が味噌汁に白飯を入れようとするのをつい阻止してしまったが、今度娘が味噌汁に白飯を入れようとしたら止めずに好きにさせてみようと思っている。娘がどうやって味噌汁に浸った白飯を食べようとするのか、とても知りたい。