柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

2000年前の「めし炊き」を探るお米屋

「炊飯」という調理技術のルーツを探り続けている長坂潔曉(ながさか・きよあき)さんは、考古学者でもなければ民俗学者でもない、街のお米屋さん。再現された弥生時代の土器で米を煮炊きするプロジェクトに参画するなど、実践を重ねながら炊飯技術の歴史と変遷を追い続けています。果たして何のために?そこから見えてくることとは?

 

弥生土器で煮炊きしたごはんは普通にうまい

 

静岡県静岡市「安東米店」を訪ねると、店の奥に弥生土器がありました。弥生土器があるお米屋……ちょっぴり風変わりで謎めいています。弥生土器を当たり前のように机の上に出して、「弥生土器で煮炊きしたごはんは普通にうまいよ」と話す店主・長坂潔曉さん。この人、本当にお米屋かなあと疑いたくなるようなお米屋です。

 

長坂さんによると、この土器は煮炊き用の「台付甕型土器」のレプリカ。土器には貯蔵用と煮炊き用があり、煮炊き用には調理しやすいように、さまざまな工夫がなされているそうです。当時の人たちは分かっていたんです。技術はその時代の技術しかなくても、人間的には現代と何ら変わりありません。人はちょっとでも良い方向に技術革新していくもの。

そうやって私たちが知っている炊飯は発達してきたのですね……と独りごちて土器を眺めていると、「当時は“その炊飯‘’ではありませんよ」と長坂さん。ごはんを炊くけど炊飯ではないとは、どういうことなのでしょうか?

■私たちの日常にある「炊飯」はほんの一部の調理法

 

「お米の調理法には何十種類もあり、私たちが『炊飯』と呼んでいるものは『炊き干し法』とも言います。この技術は、『煮る』『蒸す』『焼く』の複合的かつ連続的な加熱調理方法です。一方で、台付甕型土器は、蓋がありません。ゆえに『蒸す』ことをしていない。だとすると、これは『炊飯(炊き干し法)』ではなく、単に『煮る』だったと想像しています」(長坂さん)

長坂さんが敬愛する植物学者・中尾佐助(なかお・さすけ)(1916~1993年)の著書には、世界のお米の調理には、「湯立て」「炊干し」「湯取り」「蒸し飯」といったさまざまな方法があると書かれています。私たちが当たり前だと思っている「炊飯」は、世界的に見ると、ほんの一部に過ぎないのです。「私たちが知っている日本のジャポニカ米(※)だって、世界の米から見れば、ほんの一部。そのことを知っているのと知らないのとでは世界の見え方が変わってきます」と長坂さんは言います。

※ 日本型とも言われるジャポニカ種のイネからとれる米。日本で食べられている米はほとんどがこの種類。

水田稲作から始まった“増幅”への欲求

 

長坂さんは、弥生土器で米を煮炊きしたり、全国の遺跡で出土された土器内の残存物を聞き取ったりと、炊飯のルーツを探ることをライフワークにしています。お米屋である長坂さんが、なぜ歴史学者さながらの活動を続けているのでしょうか。

昭和38(1963)年生まれの長坂さんの子ども時代は、高度経済成長期。「昨日より今日、今日より明日、今年より来年。ものが増えたり、給料が増えたりという右肩上がりが普通の景色でした」(長坂さん)

すると、大人になっても、たった1パーセント売り上げが落ちるだけで「何が原因なんだろう?」と落ち込む。「永遠に“増え続ける”ことはない」とどこかで思っていても、“増えていく”ことを麻薬的に求めてしまう。「これっていつから始まったんだろうと考えると、水田稲作が始まってからじゃないかなあと思ったのです」(長坂さん)

1粒のタネをまくと、半年後には1000粒に増える。それは、「一粒万倍」という言葉があるように、一般的に知られています。しかし、タネを「金融商品」と考えてみると、「水田稲作はとんでもないインフレーション(通貨膨張)を生み出す、人間が考えたすごい装置」と長坂さんは言います。「増幅していく麻薬的欲求に、この日本列島で最初に応えてくれたのが稲だったのではないか……とイメージしています」

水田稲作の始まりに戻ってみる

 

長坂さんの追究は、ここで終わりません。

稲作によってインフレーションが進んだ結果、産業は発展し、余剰が生まれ、分業化され、専門家が登場しました。すると、自分の仕事以外の世の中の仕事について分からなくなってきます。炊飯器の中で何が起こっているのか分からなくてもごはんは炊くことができ、どういう仕組みで自動車が走るのか分からなくても運転することができ、そして、原子力発電はどういう仕組みで電気が作られているのか分からないまま、私たちは電気を使い続けてきました。

「豊かな暮らしを享受すると同時に、知らないことが山ほど増えました。そのこと自体を否定するつもりはありませんが、こういう仕組みが生まれたキックオフ(発端)である水田稲作の始まりに戻ることで、もしかしたら何か見えてくるんじゃないかと直感的に思ったのです」と長坂さんは言います。

そんなとき、静岡市内の「登呂遺跡」で行われるワークショップ「ARTORO(アートロ)」の講師役として、アートロ発案者の本原令子さんから声がかかりました。その計画は、「田んぼの土で稲を育て、その土で土器を作り、その土器で煮炊きした米を食べる」というもの。「考古学の本を読んでも、遺物を見ても、リアルは分からない。たしかに実際にやってみないことには……」。そう考えた長坂さんは講師役を引き受け、水田稲作の始まりによって生まれた数々の「なぜ?」を問い直す試みを始めました。

■なんであの鳥を食べちゃいけないのですかねえ

 

ARTOROで長坂さんらが2013年から5年にわたって行ったのは、田んぼの土で弥生土器を作り、その田んぼで収穫した米を、柴刈りして集めた枯れ枝を燃料に煮炊きして、食べてみること。すると、ワークショップを始めてから3年経ったある日、毎年参加していた女性が、空を飛んでいる鳥を見て「どうしてあの鳥を捕って食べちゃいけないんですかねえ」とつぶやいたそうです。

 

「空を飛んでいる鳥が動物性たんぱく質に見えたってすごいことだと思いませんか」と興奮気味に語る長坂さん。「炊飯」と「日本のジャポニカ米」がほんの一部に過ぎないと知ることで世界の見え方が変わるように、この女性は稲作や土器づくりや煮炊きなどを体験することで世界の見え方が広がったそう。水田稲作から始まった近視眼的なものの見方が、水田稲作の始まりに戻ることで、マクロ的視点に変わっていくという、なんとも不思議なワークショップです。

■2000年続いた稲作を次の2000年へ

 

水田稲作が始まってから2000年超。より良い暮らしを目指して弥生時代の人たちがその時代なりの技術で工夫してきたように、私たちも今日より明日、明日よりあさってをより良くしようと常に考えてきました。長坂さんは、水田稲作の始まりに戻ってみるだけでなく、2000年以上にわたって稲作が続いてきたことに、歴史が証明する持続可能な稲作の未来を見出しています。

「たとえば、川で子どもたちが生き物を殺したりしますよね。いわゆる『川ガキ(川でさまざまな遊びをする子どもたち)』です。生き物はかわいそうですが、川がかく乱されることで自然環境はより豊かになる。でも、子どもたちは自然を豊かにするために『川ガキ』をしているわけではなく、自分の欲求のためにやっています。水田もまさにそう。原野のままにしておくよりも、人工的に水田にしたほうが生態系は豊かになる。非常に理にかなっています。だからこそ、2000年以上も続いてこられたのではないでしょうか」(長坂さん)

水田稲作の始まりから、先人たちは新田開発をしながらお米の増産を目指し続けてきましたが、近年では大規模化や機械化が進み、農薬や化学肥料の多用によって土壌が疲弊するなど、たった50年ほどで農業環境は激変しました。
これからの2000年も稲作を続けていくためには農家はどんな視点を持ち、どんな稲作を目指すべきなのでしょうか。水田稲作の始まりに戻って考えてみるという長坂さんの試みは、今後の農業の在り方を問いかけています。

(柏木智帆「マイナビ農業」掲載)