柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

37歳で納豆ごはんがおいしくなった

かつてはぶっかけ飯が苦手だった。

 

白ごはんを汚したくないという思いが強すぎて、丼ものを避け、たまごかけごはんや納豆ごはんなども食べなかった。

 

蕎麦屋で玉子丼を食べるときに店の人にお願いして、ごはんと具を別々にしてもらっていたこともある。我ながら嫌な客だ。

 

ちなみに、たまごかけごはんを食べていなかったのは、子どもの頃はアレルギーで生卵が食べられなかったという事情もある。大人になってから食べられるようになったのでたまごかけごはん歴は実はとても短い。

 

そして、ごはんに納豆をかける納豆ごはんは食べなかったけど、ごはんに納豆をかけない納豆ごはんは食べていた。つまり、おかずを食べてからごはんを食べて口中調味するように、納豆を食べてからごはんを食べる。さらに、納豆をかき混ぜると箸が汚れるのでかき混ぜない。大粒納豆を好み、納豆の粒感を楽しむ。

 

完全に自分基準で白ごはんの美にとどまらず食卓の美を追求していたので、納豆をパックのまま食卓に置くのは言語道断。必ず器に移して食べていて、これは今でも変わらない。

 

しかし、年齢とともにこだわりがゆるやかになってきたためか、数年前から丼ものやたまごかけごはんや納豆ごはんなどのぶっかけ飯を食べるようになった。

 

それでも汁だくは苦手で、たまごかけごはんは卵液に浸食されない白ごはんの部分をキープしながら食べる。納豆ごはんはあくまでごはんの上に納豆をのせるだけで、決してごはんと納豆を混ぜたりしない。納豆をごはんにかけるようになったことで、これまで食べていた大粒よりも、米粒と馴染みのいい小粒や中粒を食べるようになった。

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先日、故・渡辺淳一氏のエッセイ「これを食べなきゃ わたしの食物史」を読んだ。

 

そこにはこんなふうに書かれている。

「不満なのは、納豆についているタレである。(略)概してどれも甘すぎる。あんなものを付けるくらいなら醤油のほうがはるかにいい。あれほどタレが甘くては、納豆本来の風味が損なわれてしまう。」

「それにしても不思議なのは、朝の納豆は旨いのに、昼から夜になるにつれて、次第に精彩を失うことである。といっても、納豆の味そのものが、そう変わるはずはないから、納豆はやはり朝飯に似合う、ということになる」

 

読みながら、そうだそうだ!と心の中で叫んだ。

私は付属のタレをいつも捨ててしまう。納豆ごはんにはシンプルな醤油が一番だと思う。

そして、納豆ごはんは朝食以外に食べようとは思わない。一時期、テレビや雑誌で「納豆は朝よりも夜に食べたほうが健康に良い」などと言われていたようだけど、たとえそれが本当だとしても健康のためにわざわざ納豆ごはんを夜に食べようとは思わない。晩酌の締めにたまごかけごはんを好んで食べていた時はあったけど、締めに納豆ごはんを食べたくなることはこの先もないように思う。

 

渡辺淳一氏はさらにこんなふうに書いていた。

 

「(父は納豆を)箸で掻きまぜ、大量の糸を引くようになったところで醤油をかける。この初めに充分掻きまぜるのが、納豆を美味しく食べるコツで、父の大きな手で掻きまぜられると、いかにも美味しそうに見えたものである。」

 

文章を読むだけでも、かき混ぜた納豆がおいしそうに感じられる。

食通で知られる北大路魯山人が400回以上も納豆をかき混ぜていたらしいという話は知っていたし、納豆好き人口のうち納豆をかき混ぜる派はおそらく8割超ではないだろうかと思っていたけど、どうしてもかき混ぜた納豆の見た目が好きになれなかった。

 

でも、これほどまでに納豆感覚が近い渡辺淳一氏が言うならばかき混ぜてみようかな…と思い始め、早速かき混ぜてみた。箸が汚れるのは嫌なので、別の箸を使って。

 

食べてみると、見た目はともかく、食べ心地は悪くなかった。糸が泡のようにふわふわと引いた納豆は旨味をより感じられた。

 

長年のこだわりを壊してみると、新たなおいしさに出会えることもある。柔軟であることの大切さを納豆ごはんに教えてもらった。