柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

摂食障害時代のこと・その4「塩がこわい」

「摂食障害時代のこと・その3「入院を拒否」」の続き

なんとか死なない程度の体重まで戻していたが、それに反比例するように、食べられるものの幅がどんどん狭まってきた。食品だけでなく、調味料の一切を受け付けられなくなってしまったのだ。

自宅療養だったので食事を作ってくれる母にはそれはもう迷惑をかけた。

ごはん、極薄い味噌汁、極薄味の煮物。毎日、同じものをつくってもらい、毎日同じものを食べる。「つくるほうが飽きた」と母が言うほど毎日同じ料理を食べた。

最初はわずかな塩や醤油や味噌は受け入れていたものの、次第に調味料を一切受け付けなくなった。どうしても調味料の味が気になってしまい、身体が、血液が汚れてしまうような感覚に陥ったのだ。理由を説明しようにも説明できない。素材そのものを味わわねばというナゾの強迫観念もあったが、自分を「浄化したい」というナゾの思想が大きかったように思う。

私の味覚にあわせて、次第に母の煮物はただの蒸し野菜になり、味噌汁は飲まなくなった。

不安がる母を見て「数字という目に見えるかたちで体重を増やしていくことが母の安心感につながる」と考えていたが、体重が増えてくると自分への嫌悪感もわいてくる。複雑な葛藤の中の拠り所が「調味料を一切とらない」という選択だったのかもしれない。

とは言え、人間が生きていくためには塩分が必要だと言われている。

医師からは何度も「塩分を取らないと死ぬ」と言われた。

それでも、無理なものは無理なのだ(だから通院している。簡単に塩分を取れたらそもそも通院していない)。

新聞社を辞めて営農組合に転職した後は、高温注意報が発令された日の午後2時頃という殺人的な暑さの中でも、汗をだらだら流しながら刈払機で草刈りを続け、休憩時に頭から水をかぶってまた草刈りを続けるという暮らしだった(しかも日焼け対策のために長袖・長ズボン・頰被りという完全防備)。それでも一度も倒れることはなく、塩を一粒もとらない期間は3年ほど続いていたように思うが、死ななかった。

ちなみに、血液検査をすると12項目ほど再検査や要観察に。体重が増えたとは言え、まだ一般的に見れば細すぎる状態で、医師からは「戦時中の高齢者の体」「骨粗鬆症」などと言われた(でも派手に転んでも骨は折れなかった)。

塩を摂取しなくても生きていけるのかどうかが気になって調べてみると、海外には塩を使わない文化の地域があったり、戦時中の島で塩を摂取できなかったりというケースがあったりした。だが、植物の灰(カリウム塩)を使ったり、河水やココナッツミルクから結果的にナトリウムを摂取したりしていた事例があったようだ。

友人からは「大豆の根粒菌が空気中の窒素を掴み取るように、空気中のナトリウムを掴み取っているのかもね」と冗談を言われたが、よく考えると白米にも微量のナトリウムや他のミネラルが含まれている。塩分は摂取せずとも、白米はしっかり食べていたし、たまに食べていた味付けなしの豆腐や納豆のおかげもあったのかもしれない。

私はエネルギー面でお米に命を救われたのだと思っていたが、ミネラル面においてもお米に命を救われたのかもしれない。