七草がゆの日。
パック詰めされた七草を茹でて刻み、土鍋で多めの水と一緒に炊く。
ふと、パッケージを見ると、作り方の手順に「塩ひとつまみ」と書いてある。
ひとつまみ…どれぐらいだろう。
砂のように細かい塩をほんの数粒をおそるおそる入れる。
いや、いくらなんでもこれは少なすぎるか。
「ひとつかみ」を目指して、数粒つかんでは入れ…を4回、繰り返す。
ちょっぴり不安に感じるが、レシピにそう書いてあるのだから、そうすべきなのだろう。
熱いものは熱いうちに。それがおいしさの秘訣だと思っているので、七草がゆも熱々のうちに口に運ぶ。熱いけど、その熱さをこらえながら食べるのがおいしい。冷めないうちに食べすすめる。
しかし冷めてくると、急にしょっぱいように思える。おむすびは冷めてからのほうが塩を感じづらいのに。
塩をいれたときの光景が思い起こされる。数粒の塩を4回入れたけど、それでも「ひとつまみ」の量にはなっていないはず。それでも、どうしてもしょっぱすぎたのではと不安に駆られる。実際に「しょっぱい」と感じたのではなく、どうも「しょっぱいような気がする」のだ。
どうしようもない不安が押し寄せ、実家の母に電話する。「そんなの、大丈夫だよ」。そう言って笑ってほしい。
しかし、母は「4回?それは入れすぎかもねえ」。
その反応に半泣きになる。
「でも、ひとつまみにもなってないよ?4回といっても数粒ずつだよ?」
母に言っても仕方ない。でも、そうしないではいられない。
「お粥の汁を残したならいいんじゃない?わたしも昆布の佃煮をのせて食べたし…」と母。
そうだ、わたしは汁を残した。佃煮も梅干しものせていない。大丈夫だ。懸命に自分に言い聞かせる。にもかかわらず、涙が止まらなくなる。
通勤電車の中でも、頭から塩のことが離れない。人目もはばからず涙を流す。周りの人はきっと驚いたに違いない。仕事中も塩のことが頭から離れない。夜になって横になっても、頭の中が塩だらけで寝付けず、涙が溢れる。
なぜ、こんなに塩分が気になるのだろう?
健康のために塩分摂取量を控えているわけではない。むしろ、医者からは塩分摂取するよう何度も言われ、「塩分の控え方が明らかに不健康」と指摘されている。「人は塩分がなければ生きていけない」とも聞く。私もそう思う。わかっているのに、塩がこわい。
すでに当時、味噌汁の汁を残したり、刺身に醤油をつけなかったりしていたが、この七草粥事件の翌日、実家で夕飯を食べたときには、私仕様の極薄味の煮物や味噌汁の味が、やけに濃く感じ始めた。それからは煮物をやめて蒸し野菜にし、味噌汁をさらに湯で薄めることに。その後、味噌汁は味噌を入れないただの「汁」になった。