柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

お米の「おいしさ」とは

新米の季節になると、各地で「おいしいお米」を選ぶコンテスト・コンクールが開かれるが、「おいしいお米」って何だろうと毎年改めて考える。

粒張りや粒立ちの良さとか、でんぷんの滑らかさとか、指標はさまざまだけど、お米は日常食であるからこそおいしさの指標は人それぞれだし、収穫後の乾燥や保管や精米や炊飯でも味が変わってしまうし、食べるときの気分やシーンによっても感じ方は変わってくるし、食べ慣れているお米や食べるときの体調やもともとの嗜好によっても変わってくる。

おいしいけどものたりないとか、おいしいけど重たいとか、おいしいとは言えないけどなぜかクセになるとか。

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もちろんみなさんおいしさを目指して栽培するわけだけど、お米の個性を良いと捉えるか否と捉えるかは食べ手次第で、「発酵食品」を発酵と見るか腐敗と見るかということに似ているのかもしれない。

お米には生産者の人柄が現れると思っている。稲に対しても人にも対しても愛に溢れている農家の米はおいしい。お米に対しても人に対しても愛に溢れている人が炊いた米はおいしい。おいしさってそういう側面もあると思う。だから私は好きな農家の米を食べたいと思うし、好きな米屋が厳選・精米した米を食べてみたいと思うし、好きな人が炊いたごはんを食べてみたいと思う。

一方で、お米の消費は減っている。

作り手側はおいしさを目指して本気でお米を作っているのだから、食べ手側も本気でお米のポテンシャルを引き出す炊飯をしたい。日常食だからこそ炊飯に手軽さを求められることもわかりつつ、本気で栽培されたお米には本気で向き合って炊飯したい。

農家は稲作によって文化をつくっている。そして、食べ手も食卓の連続によって文化をつくっていく。「おいしさ」は作り手と食べ手が一緒になって生み出していくものなんだろうなと思う。