柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

いくらごはんと口中調味

2歳の娘は食べられるものが極端に少ないが、最近いくらが大好きになった。

私がいくらを食べる時はごはんの上にいくらをのせて、ごはんといくらを同時に口に入れる。そして、塩味をごはんが受け止めきれない場合は、さらにひとくちごはんだけをたべる。

しかし、娘はごはんの上にいくらをのせてもいくらだけを食べる。そして、いくらのタレがついてしまったごはんを食べない。

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そんなわけで、ごはんはごはん、いくらはいくらで、それぞれ皿にのせる。

いくらをひとくち食べたらごはんをひとくち食べるとおいしいと思うけど、娘はいくらをすべて食べ終わってからごはんを食べ始める。
わたしは日本で生まれ育ったので口中調味は本能的に行っているのだと思っていたけど、そうではなくて学習というか習慣によって獲得するものなんだなあと改めて感じる。

もしわたしが海外の食文化のもとで育っていたら口中調味は今ほど染み付いていなかったのかもしれない。
料理と日本酒のペアリングが楽しいように、料理とごはん(お米)のペアリングも楽しい…というふうにお米つながりで同種に考えていたけど、よく考えると似ているようで違う。

前者は料理を食べ、その味や香りなどの余韻に日本酒を合わせてマリアージュを楽しむ(と素人ながら認識している)。一方で、後者は料理とごはんを別々に食べつつ口の中で同居させ、どちらかといえば塩味の中和的な要素が多い。

海外では料理とワインのペアリングがある一方で、料理とごはんが口の中で同居している場合はごはんに料理やスープなどをぶっかけているか、そもそもスープやスパイスや油脂類でお米を調理している。白ごはんと料理を別々に食べつつ口の中で同居させて味わう口中調味は、日本で暮らしてきた中で無意識に獲得してきた習慣であり、日本特有の文化なんだなあと娘のいくらとごはんを見て改めて感じている。

そして、それもお米を白ごはんとして楽しむ文化があればこそ。いくらだけを食べても満たされず、いくらとごはんをひとくち食べ、さらに塩味を中和するためにごはんをもうひとくち食べ、中和が保たれたときにようやく至福を感じる。もはやごはん無しに至福感は成立しない。