柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

「名飯部類」からの米食考・その1

先日、Eテレの「知恵泉」を見た。

稲に詳しい農学者の佐藤洋一郎氏がご出演されていたので、これは見なくてはと久しぶりにテレビの電源をつけた。

 

番組で「名飯部類」という150種類ものお米の食べ方がのった江戸時代の本があることを知った。「豆腐百珍」の100種類よりも多い。白飯(佐藤氏の著書によると搗精技術が未熟だったため、“まだら米”)を食べられるようになったのは、江戸時代。しかも、農村ではまだいわゆる銀シャリにはありつけなかった。佐藤氏によると、日本人は「米食悲願民族」だったという。

 

番組を見た後、「名飯部類」を古書で手に入れた。

 

私はこれまで、海外でお米の取材をするほどに、白飯を楽しむ日本の文化の希少さを実感していた。世界ではお米の料理と言えば加熱時に調味をする場合が多く、たとえ水だけで炊いた白飯だとしても、味の濃いおかずをのせたり汁気のあるおかずをぶっかけたりする。白飯とおかずを別々に食べる「口中調味」は日本独自の文化だ。

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しかし、「名飯部類」には、具材と一緒に炊いたり、上に何かをかけたりのせたりしたごはんの食べ方が書かれていた。口中調味の歴史は意外と浅いのかもしれない。

 

この本には「名飯部類」だけでなく、「都鄙安逸伝」も収録されていた。「名飯部類」は江戸の豊かな食が垣間見える一方で、「都鄙安逸伝」は農村向けに飢饉の時のためのお米の食べ方が書かれている。つまり、少ない米で作れるかさ増し料理だ。さまざまな創意工夫に、制限の中で少しでも食を楽しもうとする人々の前向きさやたくましさが感じられた。

 

ちなみに、先日の新聞で、釜揚げ蕎麦が生まれた由来について「出雲の神在祭では屋台で茹でたそばを水でしめられなかったから」というようなことが書かれていた。祭りと飢饉とでは制限の度合いがあまりにも違うとは言え、制限された環境下から新たな食文化が生まれるというのは非常に興味深い。

 

冒頭の「知恵泉」によると、江戸に住む人たちの米消費量は1日5合。私は1日3.5合が基本で同年代の女性よりは多いかなあと思っていたけど、さらに1.5合も多いということか。

 

「名飯部類」の炊き込みごはんやお粥はかさ増し目的ではなく米料理を楽しむためだとしても、具材を入れたり水分を多くすると、どうしてもかさは増す。5合の体感量はもっと多そうだ。江戸の人たちは健啖家だったのだろうか。

 

とは言え、「江戸の街は肥満だらけだった」とは聞いたことがない。「お米は太る」と言う人たちもいるが、お米ではなく他のものが太る原因であることは1日5合の数字から見ても明らかではないだろうか。どうかお米のせいにしないでほしい。