柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

すっぱい中毒

これまでの人生はずいぶんと道を踏み外しながら歩いてきたように思う。崖から2度ほど落ちかけて、かろうじて指1本ひっかけて、なんとかその後も歩き続けてきた。

 

「こうあらねばならない」と自分を型にはめすぎて、苦しみぬいて、でもある日、道を踏み外しまくっている自分に気づき、「『こうあらねばならない』なんてものはない。すでに外れまくってるじゃないか!」と自分にツッコミ、目の前が晴れていった。

 

「こうあらねば幻想」から目が覚めたきっかけは、いろいろあるけど、そのタイミングで読んだ村上龍の小説「69」はインパクトがあった。主人公があまりにもめちゃくちゃで、「教科書通りなんてつまらないな」と思った。

 

というわけで、「私は教科書通りの人生は歩みません」と思っていた(そう思っているところが「こうあらねば幻想」の延長のような気もするけど)。

 

しかしながら、妊娠後の私は見事に「教科書通り」になっている。

 

一般的に「妊婦は柑橘類など酸っぱいものが食べたくなる」と言われている通り、やたらと柑橘類を食べたくなっている。こんなに柑橘類を購入しているのは人生で初めてかもしれない。

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すっぱい中毒

先日は近所のスーパーで買った「はるか」という柑橘が思ったほど酸っぱくなかった。そこで、会津若松市のバーの店主に教えてもらった愛媛県の「レモンジュース」を買って、「はるか」を浸して食べた。「レモンジュース」という名称ではあるものの、中身はレモン100%のストレート果汁。とても酸っぱい。おかげで酸味がものたりなかった「はるか」が格段においしくなった。

 

妊娠中の嗜好の変化は個人差があるはずなのに、思いっきり「教科書通り」。この「レモンジュース」をコップに注いでぐいっと飲みたい衝動にも駆られるけど、刺激が強すぎるような気がして自制している。

 

そして、一般的に「妊娠15週でつわりがおさまってくる」と言われている通り、15週0日目の午前からなんだかつわりが軽くなっていた。完ぺきにつわりがなくなったわけではないので気づいていなかったけど、14週6日目の夜はコロッケが食べたくなって久々に揚げ物を作ったら、友人から「揚げ物を食べてるのびっくり!わたし揚げ物は妊娠中あまり受け付けなかった」と言われた。そこで初めて、「あ、もしかしたらつわりが軽くなっているのかも…」と気づき、数えてみると15週目だった…というわけだ。個人差があるはずなのに…思いっきり「教科書通り」じゃないか。

 

「教科書通り」に事が進んでいることになぜか悔しい気もするけど、「こうあらねばならないと思ってはならない…というふうに思ってはならない…」という無限ループにはまらないように、そもそも私みたいなタイプは「教科書」をあまり見ないほうがいいのかもしれない。

“擬製米”のカリフラワー

先日、ネットの記事でごはんの代用食としてカリフラワーをみじん切りにした商品があることを知った。なんと某チェーンカレー店では、ごはんの代わりにカリフラワーのみじん切りを採用しているらしい。糖質制限ブームの延長だろうか。

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カリフラワーのみじん切りは冷凍食品としても販売されているらしい

 たしかに見た目はごはんのように白い。もしかしたら、カレーライスとしてはではなく、「カリフラワーのカレーソース添え」的な料理としては合うのかもしれないけど、味や食感はごはんの「代わり」にならないような…。

 

友人は「私の好きな筋子にはぜったい合わない」と言っていた。同感。

 

代わりというのは、「本当はAが良いんだけど、仕方ないからBにするか」というふうな妥協的な感じがある。「ごはんの代わりとしてのカリフラワー」は、食べてもらえないがごはんかわいそうだし、ごはんの代わりにされているカリフラワーもかわいそう。ただし、食物アレルギーの人にとっては「代わり」で食事が楽しめるのは良いことだけど。

 

私は肉を食べないし、大豆を原料として肉に似せて作られた「ソイミート」や「リンケッツ」なども食べない。肉の「代わり」とされている大豆へのリスペクトが感じられないし、肉が食べたかったら肉のつもりで大豆を食べるのではなく、肉と向き合って肉を食べたほうが、大豆にも肉にも誠実だと感じる。

 

私がカリフラワーや大豆だったら、「あっそうですか、私はごはんや肉の代わりですか、ふーん」と独りごちて、とても傷つくと思う。「代わり」とか「代用」ってなんとなく悲しい響きがある。

大盛りライスと濃いカレー

先日、「ニューデリー」というインドカレー店へ入った。

 

インド人とみられる人たちがスタッフで、建物は喫茶店かラーメン店だったような店の居抜き。テレビからはインド音楽のDVDが流れてくる。テーブルはちぐはぐで、カウンターに2つだけ置いてある椅子はパイプ椅子。壁にはインドビールの紹介やwifiの案内などが書かれた紙が貼られ、マジックで「Look at me!」と書かれている。

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気になる看板

大人たちには銀色の食器でカレーが提供されているのに、隣のテーブルの男の子にはなぜか味噌汁のお椀にカレーが入っていた。熱伝導で「あちち」とならない配慮だろうか。いずれにしても雰囲気がずいぶんと独特で、カレーを食べる前からすっかりニューデリーを気に入った。

 

注文した野菜カレーとサフランライスが出てくると、ライスの量に驚いた。大盛りって言ってないのに大盛りで出て来る定食屋のごはんよりも多い。一方で、カレーの量は普通。人によっては「ちょっと少なめだね」と言うかもしれない。

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分かりにくいけど、かなりの大盛りライス

 「これはごはんが余ってしまうかもしれないなあ」と言いながら食べ始めた。ところが、カレーの味がずいぶんと濃い。そして、「辛口」にしてみたら、かなり辛い(「激辛」にしなくて良かった)。おかげでライスがぐんぐん進み、定食屋の大盛りごはんよりも多く見えたライスが瞬く間に消えた。

 

そして、最終的にはライスとごはんの量が絶妙にピッタリだった。私は感動した。

 

そこで思ったのは、日本のごはんの消費量が減っている要因の一つとして、おかずの味付けの薄さにあるのではないかということ。かつては、塩が吹くほどしょっぱい塩シャケとか、甘辛い佃煮とか、昔は味の濃いごはんのおともが多かったのではないだろうか。ある時期から「減塩」という言葉が聞かれるようになり、薄味のおかずが好まれるようになると、ごはんを食べる量も減ったのかもしれない。

 

と言っても、デスクワークが増えたからとか、炊飯が面倒とか、あくまでいろいろある要因のうちのたった一つに過ぎないけど。

 

とは言え、ニューデリーを出た後、夫と「濃かったねえ」とくり返した。そして、のどが乾いて水が飲みたくなった。でも、とてもおいしかった。しかし、「妊婦って塩分の摂り過ぎに注意って本に書いてあったなあ…」と少し気になった。

 

そうは言っても、ごはんはそんなに大量にお腹に入るものではない。普段はせいぜい1食で1合くらい。夫は一時期は1食で2合食べていたけど、一般的には多いほうだと思うし、それでも1食で2合だ。ということは、いくら味の濃いおかずを食べても、ごはんでお腹がいっぱいになれば、そこで「ごちそうさま」。塩分過多といってもそこまで塩分を摂りすぎないうちに食事が終わるのではないだろうか。

 

一方で、ごはんを食べずにおかずだけを食べると、お腹がいっぱいにならないので、おかずを食べ続けることになり、結果的に塩分はけっこう摂取するように思う。いくらしょっぱい漬物を食べても、たとえばたった2枚の漬物でごはんを2杯食べられるならば、たいした塩分摂取ではないように思う。

 

生米と水だけで調理できて、おいしくお腹を満たしてくれるごはんって、やはりすごい。ごはんを中心とした日本の食文化のすばらしさを、改めてニューデリーが教えてくれた。

かけ蕎麦に天ぷらまんじゅう

福島県会津地方には「天ぷらまんじゅう」という食べものがある。

 

薄皮まんじゅうに衣をつけて揚げたもので、関東でも「揚げまんじゅう」という名前で見たことがある。長野県出身の母も「学生時代に駅前の揚げまんじゅう屋さんで買って食べた揚げたてがおいしかった」と懐かしそうに言う。

 

というわけで天ぷらまんじゅう自体になじみはあったけど、驚いたのは夫が揚げまんじゅうをかけ蕎麦に入れて食べていたこと。「うちのばあさまもこうしてた」と夫。たしかに、天ぷらまんじゅうがメニューにある蕎麦屋もある。まんじゅうの小豆餡の甘さと、ツユのしょっぱさが絶妙にマッチするらしい。

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かけ蕎麦はネギ抜き

 この組み合わせに馴染んでいたからだろうか、夫は以前にホテルの朝食ビュッフェで驚愕の組み合わせの食事を楽しんでいた。

 

デザートを取りに行って戻ってきた夫の手には、チョコレートケーキと、なぜか味噌汁。交互に食べながら「絶妙に合う。これはすごい。発見だ」などと繰り返していた。きっとお汁粉を食べる時に漬物が添えられているイメージなんだろうと想像したら、ちょっと違うらしい。「チョコレートケーキにサンドされているラズベリーソースの甘酸っぱさがキモ」だそうだ。スウェーデンでミートボールを食べるときにジャムが添えられているイメージなのかもしれない(食べたことないけど)。むずかしい。

 

先日、「胎児のはなし」(増崎英明、最相葉月共著・ミシマ社)を読んだ。そこには、「父親のDNAが胎児を介して母親にも入っていることが最近になってわかりました」と書いてあった。もしかして、つわりって私の味覚や嗜好に夫の味覚や嗜好も混じってくることで起こるのだろうかなどと考えてみたりもした。

 

チョコレートケーキと味噌汁の組み合わせは永遠に理解できそうもないけど、もしかしたら、かけ蕎麦に天ぷら饅頭を入れて食べてみたら意外においしいと感じるかもしれない。

もみじまんじゅうと自己責任論

私が住んでいる町にはおいしいと評判の今川焼きがある。でも、いつも売っているわけではなく、毎年1月13日に開かれる十三市(初市)や、たまに地元のスーパーの入口で買えるくらいのレアな今川焼だ。

 

夫も家族もみんなこの今川焼が好き。私は甘いあんこやクリームが苦手なので食べないけど、甘くない皮部分だけは好きだ。この皮だけ食べたい。ということで、夫にお土産で買った2つのうちの1つだけ、片側の皮をパン切りナイフでを切り落として食べ、夫には何か欠けた感じの今川焼を残した。

 

夫からは「お店の人に『中身入れないで焼いてください』って頼めばいいのに」と言われたけど、気が乗らない。中身まで生地が入ってしまうと、中心部分が生焼けになってしまいそうだし、きっと端っこだからおいしく感じるのだと思う。中身のない今川焼はたとえ全部食べられたとしてもおいしさが半減してしまいそうだ。

 

あんまんも「あん」が苦手で、「まん」の部分だけを食べたい。台湾に行ったときに、「饅頭(マントウ)」という名前で中身の「あん」が入っていない「まん」が売っていたけど、あえて食べようとも思わなかった。台湾滞在中は駅弁やお米に夢中で他の食べものが眼中になかったという経緯もあるけど、やはりあんまんの「まん」の部分だけをつまみ食いするのが好きなんだと思う。

 

ただ、こんなにも甘いものが苦手と言いつつ、口の中に甘いものを詰め込んだ思い出もある。

 

就職活動中、報道志望で広島県の某地方テレビ局の最終面接まで残った。当時、ちょうど「イラク人質事件」で「自己責任論」という言葉が世間を騒がせていた。どのメディアの論調も人質となった日本人3人をバッシングしていたけど、私はその論調には違和感を覚えていた。面接で社長から「あの事件についてどう思うか。あなたの考えは」と言われたので、正直に私は「あの3人をたたくのはおかしいと思う」と答えた。

 

すると、社長の表情が豹変。「あの3人はどれだけ日本に迷惑をかけたと思っているんだ!君はもっと世論を見たまえ!」と怒鳴られた。

 

ショックだった。怒られたことが、ではない。ただのコムスメのイチ意見に、企業の、しかもメディアのトップにいる人間が、こんなにも腹を立ててしまうとは。違う意見に耳を傾けるどころか、ばっさりと切り捨てて終わりにしてしまうとは(まだ理由すら答えていなかった)。異論を怒りによってねじ伏せ、持論を正論と位置づけて展開しようとするメディアの在り方に恐ろしさを感じた。

 

落ちたな、と思った。でも、こんな会社ならば、むしろ落ちたい。

 

とは言え、就職氷河期だった当時、どうしても報道の仕事がやりたくてマスコミばかりを受けては落ち続ける就職活動に疲れ果てていた。帰りの新幹線では真っ暗な窓の外を見つめながら涙がこぼれた。

 

そして、私は何を思ったか、お土産のもみじまんじゅうの箱を開け、まるで親のカタキかのようにもみじまんじゅうを口の中に次から次へと詰め込んだ。泣きながら。

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皮まで甘いもみじまんじゅう

 さぞ甘かっただろうけど、味をあまり覚えていない。泣きながらもみじまんじゅうをヤケ食いして、すっきりした私は、また翌日から就職活動をせっせと続けた。

 

今でも「自己責任論」という言葉をニュースで聞くたびにもみじまんじゅうを思い出し、もみじまんじゅうを見ては泣きながら口にそれを詰め込んでいた新幹線の車内を思い出す。

ごはんが足りない

市販弁当のふたを開けて最初に見るのはごはんとおかずの量のバランス。

 

多くの場合、おかずに対するごはんの量が少ない。そのため、何も考えずに食べ始めてしまうと、途中でごはんがなくなり、「このおかずでごはんが食べたかったのに…」とがっかりすることになる。

 

先日は新幹線の中で食事するために、シャケ海苔弁を買った。

 

おかずは、シャケ、煮物(がんもどき、椎茸、にんじん、タケノコ、ふき)、ひじき煮、きんぴらごぼう、玉子焼き、煮豆、漬物。

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シャケ海苔弁

弁当のおかずはただでさえ味付けが濃い。そして、この品数。

 

明らかにごはんが足りない。

 

すべてのおかずとごはんを一緒に楽しめそうはない。

 

そこで、このおかずの中でも「これは絶対にごはんと一緒に食べたい」と思うものを選抜した。

 

1位は、シャケの背中のほう。同点2位は、きんぴらごぼう、がんもどき、ひじき煮。それでも、あやうくごはんが足りなくなりそうだった。ごはんを遠慮がちに食べたおかげで、なんとかギリギリごはんとおかずの調和が楽しめた。

 

フードロスは問題だとは思うけど、ごはんがないのに味付けの濃いおかずだけを食べるのはつらい。お酒が飲めたらおかずをつまみにできたけど、今はお酒が飲めないので、余ったおかずたちはサヨナラするしかなかった。ごめんなさい。ごめんなさい。

 

弁当を作る人たちにとっては、このごはんとおかずの量がグッドバランスなのだろうか。その人たちは、定食屋に行ったらめちゃくちゃごはんを残してしまうのだろうか。

 

どうやってごはんとおかずの味と量のバランスを決めているのか、弁当を作る人たちに取材してみたい。

「偏食」の受容力

いわゆる「都会」に住み、「田舎」にも住むと、「都会」の良いところ悪いところもあるし、「田舎」の良いところ悪いところもあるなあと感じた。

 

以前に2年ほど住んでいた「田舎すぎないけど一応どちらかというと田舎」の地域は、一部の住民たちは本当に良き人たちだったけど、一部の住民たちは多様性を認めない気質があり、私の「偏食」を知ると「早死にするよ」などと否定してきた。

 

そのとき勤めていた営農組合の経理のおばちゃんは、昼には従業員たちにコンビニや弁当屋の弁当を買ってきてくれたり、農作業が終わった夕方はなぜかトーストを焼いてくれた。

 

でも、私は「偏食」なので市販の弁当で食べられるものは少ないし、トーストが好きではない。それに、夕方にトーストを食べたらお腹がいっぱいで夕食が食べられなくなってしまう。

 

というわけで、昼は弁当を持参して、夕方のトーストを断っていたら、おばちゃんにいじめられるようになった。

 

その後、「都会」に戻ると、知り合いの栄養士の方から「変わり者は『田舎』よりも『都会』のほうが住みやすい」と言われた。たしかに、そうかもしれない。「田舎」は干渉が過ぎるし、多様性を認めない風土があるのではなかろうかと思っていた。私は小学生のころは「田舎のおばあちゃん」家に行くのが大好きで、「大きくなったら田舎に住む」と言っていたそうだけど、「田舎すぎないけど一応どちらかというと田舎」の地域で偏食を受容してもらえなかった経験によって、「田舎」が大嫌いになってしまった。

 

それから月日は流れ、取材を通して福島県のお米農家の男性と知り合い、結婚することになった。つまり、今の夫。

 

夫が住んでいるのは、「田舎」。夫の実家におじゃまするとき、緊張した。出された食事が食べられるだろうか、食べられなかったら変に思われるだろうか…。

 

しかし、夫はベジタリアン。私と同じくらいか、場合によっては私よりも食の幅が狭い。というわけで、夫の「偏食」に慣れていた実家の人々は、私の「偏食」をまったく気にするふうでもなかった。

 

その後も実家に遊びに行って、私が食べられる凍み餅やみかんをお父ちゃんやお母ちゃんからすすめられたときも、お腹が空いていたら食べるけど、お腹が空いてなかったら食べない。でも、お父ちゃんもお母ちゃんもまったく気にしない。私は感動した。

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お父ちゃんの手作り凍み餅

しかし、その後の問題はご近所さん。共同の農作業後の食事や、地域の祭りの後に集会所でみんなで食事をするとき、この偏食っぷりを変に思われないだろうか、かつてのように「早死にするよ」とか言われないだろうか、とドキドキした。

 

ところが、夫の「偏食」に慣れている地域の人々は、私の「偏食」をまったく気にしない。集会所のテーブルに唐揚げなどの惣菜や寿司などが並ぶなか、われわれが食べられるかんぴょう巻やかっぱ巻や納豆巻などが当たり前のように購入されていて、夫と私の前に置かれる。夫いわく、やはりみなさんは「おれで免疫ができている」らしい。

 

この町に移住してから、基本的には「偏食」でいやな思いをしていない。私は昔のつらい体験をもとに、「田舎」をひとくくりにしすぎていたように思う。

 

思えば、夫に初めて出会ったのは、夫の稲刈りの昼休憩。数人が手伝いに来ていた。農作業の合間のランチはきっとおむすびなどであろうと思っていた私は驚いた。田んぼのあぜに置かれた鍋の中には、ほかほかのチーズリゾット、松茸ごはん、落花生ごはん。さらに、このチーズどっさりのリゾットの上で、今まさにトリュフを大量に削っている。なんてクレイジーな人たち…。勝手につくりあげていた「田舎」のイメージが崩れ始めた瞬間だった(すべて夫の友人で世界のあらゆる料理が作れるサトシさんの差し入れ)。

 

「都会」に住もうが「田舎」に住もうが、他力本願だけどいかに人に恵まれるかはとても大きい。そして、自分がどう楽しむか。干渉も偏見も、時間の流れ方も、暮らし方も、都会だからできるとかできないとか幸せとか不幸せとか、田舎だからできるとかできないとか幸せとか不幸せとか、「都会」と「田舎」を二項対立させる見方には違和感を覚えるようになった。

 

夫を見ていると、地域において異質な他者を受け入れるか否かの違いは、地域に変わり者がどれほどいるかによって左右される面もあるのかもしれない…と思う。