柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

“擬製米”のカリフラワー

先日、ネットの記事でごはんの代用食としてカリフラワーをみじん切りにした商品があることを知った。なんと某チェーンカレー店では、ごはんの代わりにカリフラワーのみじん切りを採用しているらしい。糖質制限ブームの延長だろうか。

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カリフラワーのみじん切りは冷凍食品としても販売されているらしい

 たしかに見た目はごはんのように白い。もしかしたら、カレーライスとしてはではなく、「カリフラワーのカレーソース添え」的な料理としては合うのかもしれないけど、味や食感はごはんの「代わり」にならないような…。

 

友人は「私の好きな筋子にはぜったい合わない」と言っていた。同感。

 

代わりというのは、「本当はAが良いんだけど、仕方ないからBにするか」というふうな妥協的な感じがある。「ごはんの代わりとしてのカリフラワー」は、食べてもらえないがごはんかわいそうだし、ごはんの代わりにされているカリフラワーもかわいそう。ただし、食物アレルギーの人にとっては「代わり」で食事が楽しめるのは良いことだけど。

 

私は肉を食べないし、大豆を原料として肉に似せて作られた「ソイミート」や「リンケッツ」なども食べない。肉の「代わり」とされている大豆へのリスペクトが感じられないし、肉が食べたかったら肉のつもりで大豆を食べるのではなく、肉と向き合って肉を食べたほうが、大豆にも肉にも誠実だと感じる。

 

私がカリフラワーや大豆だったら、「あっそうですか、私はごはんや肉の代わりですか、ふーん」と独りごちて、とても傷つくと思う。「代わり」とか「代用」ってなんとなく悲しい響きがある。