柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

炊飯と育児

先日、ある農家のお米を長時間浸漬してから炊飯器の早炊きモードで炊いたら甘さと旨みを感じた。

 

数日後にそのお米を長時間浸漬してから土鍋で炊いたら甘さが感じづらくなるほどの強烈な旨みを感じた。舌に触れるだけでおねばが旨い。そして、飲み込んでからも喉だけでなく口の中全体に旨みの余韻が残る。

 

炊飯方法の違いでお米の表情が変わることは分かっていたけど、こんなにも違いがあるのかと改めて驚いた。

 

現在1歳の娘の育児中で頭が育児モードになっているせいか、炊飯は育児に似ているなあと感じる。

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炊飯器の早炊きモードで炊くと、良くも悪くもその子(お米)の持ち味が出る。長所も短所もありのままが顔を出す。

 

炊飯器の普通炊飯モード(白米モード)や最高炊きモード(極みモードなど)で炊くと、いわゆる“優等生”になる。つまり、誰が見ても(食べても)だいたい「良い子(おいしい)」と感じる。しかし、それはその子の短所も含めすべての持ち味を引き出すというよりは、親や先生(メーカー)が良い子(おいしい)と思う子(ごはん)なのである。

 

そして、土鍋で炊くと、その子(お米)のポテンシャルがぐんと引き出される。

 

米質によって一概ではないので、いずれも「傾向がある」ということだけど。

 

というわけで、新しいお米を購入した時はまず早炊きをしてみてから土鍋で炊いてみることにしている。そのお米を知るためには、まずはお米のありのままと向き合ってから、そのポテンシャルを探るという流れが良いように思う。

 

育児と炊飯は試行錯誤の繰り返しという点でも、わからないことだらけという点でも似ている。そして、娘もお米もすでに私の人生においてかけがえのない存在になっている。

「名飯部類」からの米食考・その2

前回に引き続き、江戸時代後期のご飯の専門書「米飯部類」を読んでいて最も興奮したのは「例言(そえごと)」にのっていたこの一節。

 

「諸米飯を炊くとき、米を選ぶことに最大の努力を払うこと。魚・鳥などあぶら気の強いものを入れるときは、性の軽い、味もあっさりした米をよくつき、精白して使う。野菜・豆類など淡白な品を入れるときは、性が強くてうまいものを使うようにする」

 

これについてはさらに詳しく書かれている。

 

「たとえば魚・鳥の名飯には北国米(加賀、柴田、村上米などを使用、たとえ性が軽く味が淡白でも、秋田、津軽米などは使わぬこと)をよくつき、精白して使うのがよい。野菜・豆類の名飯には西国米(肥後、筑前、中国、備前米など)を同様によく精白して使う。魚・鳥は持ち味が濃厚なので、米は軽い感じのものが合い、野菜・豆類は淡白だから米の味のしっかりしたものがよい。もし、米の産地・性質を考えずに使うと、味わいの片寄ったものになってしまう恐れがある。だから、米を選ぶことが第一なのである」

 

江戸の人たちが米料理ごとにお米の使い分けをしていたことに驚いた。お米(食糧)の安定的な確保という意味の豊かさと、文化的な豊かさの両方が垣間見える。

 

そして、現代を生きる私たちはお米(食糧)の安定的な確保ができているどころか、ずいぶん前から「米余り」の状況が続いている。しかし、使う具材によってお米を変えるという人はいったいどれくらいいるのだろうか。

 

「名飯部類」では「米の産地・性質」と書かれていて、ここで言う「性質」はおそらく栽培地由来の性質のことを言っているのだと思う。品種について触れられていないところが興味深い。

 

稲に詳しい農学者・佐藤洋一郎さんに以前に取材させていただいた際、こんなお話をうかがった。

 

「明治時代は4000もの品種があり、異名同種、同名異種と思われるものを整理しても約600種が残ったと言われています」

「明治・大正時代頃までは一つの品種の中に遺伝的にいろいろなものが含まれていました」

「当時は立派な品種だったものが、いまは当時の品種は『混ざりが大きい』とか『雑駁』などと言われている。つまり、品種とは時代によって位置づけが変わる社会的な存在なのです」

(季刊「自然栽培」vol.17ニッポンの米の可能性を探る。part1「コシヒカリ」は永遠のスーパースターなのか!?もっといろんな米があっていい! より)

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当時は「品種」というものが遺伝的にも概念的にも現在よりも曖昧だったのかもしれない。それでも、産地ごとの性質を考慮してお米を使い分けていた。江戸の人たちのお米ライフを見習うと、私たちはお米をもっと楽しめるのではないだろうか。

 

ちなみに以前にスペインでお米の取材をしたときに、スペイン人たちは「パエリアで使われるお米はこの品種が有名だけど私はこの品種が好き」「パエリアやカスエラにはこの品種」「パエリアにはこの品種、メロッソにはこの品種」というふうに作る米料理や好みによってお米を使い分けていた。

 

スペインの主食はパンで、お米料理はあくまで料理の一つらしい。日本はお米が主食なのだから、もう少しお米の性質に目を向け、お米の使い分けを追究してみると、お米を食べる人やお米を食べる量が増えるのではないだろうか。つまり、「適地適作」のように、お米も合う料理、合わせづらい料理がある。ベストマッチングができれば、お米がもっとおいしくなって、お米をたくさん食べるようになるのでは…と妄想している。

 

品種による使い分けはもちろんだけど、同じ品種でも生産者によって食味は異なり、同じ生産者の同じ品種でも栽培方法や田んぼによって食味が変わる。さらにお米とお米をブレンドしてみるなど、楽しみ方は無限大。そしてそれがおいしいかどうかは一人一人の好みによっても異なる。もっとお米を遊んでみると、未知なるお米のおいしさに出会えそう。お米の可能性はまだまだたっぷりある。

「名飯部類」からの米食考・その1

先日、Eテレの「知恵泉」を見た。

稲に詳しい農学者の佐藤洋一郎氏がご出演されていたので、これは見なくてはと久しぶりにテレビの電源をつけた。

 

番組で「名飯部類」という150種類ものお米の食べ方がのった江戸時代の本があることを知った。「豆腐百珍」の100種類よりも多い。白飯(佐藤氏の著書によると搗精技術が未熟だったため、“まだら米”)を食べられるようになったのは、江戸時代。しかも、農村ではまだいわゆる銀シャリにはありつけなかった。佐藤氏によると、日本人は「米食悲願民族」だったという。

 

番組を見た後、「名飯部類」を古書で手に入れた。

 

私はこれまで、海外でお米の取材をするほどに、白飯を楽しむ日本の文化の希少さを実感していた。世界ではお米の料理と言えば加熱時に調味をする場合が多く、たとえ水だけで炊いた白飯だとしても、味の濃いおかずをのせたり汁気のあるおかずをぶっかけたりする。白飯とおかずを別々に食べる「口中調味」は日本独自の文化だ。

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しかし、「名飯部類」には、具材と一緒に炊いたり、上に何かをかけたりのせたりしたごはんの食べ方が書かれていた。口中調味の歴史は意外と浅いのかもしれない。

 

この本には「名飯部類」だけでなく、「都鄙安逸伝」も収録されていた。「名飯部類」は江戸の豊かな食が垣間見える一方で、「都鄙安逸伝」は農村向けに飢饉の時のためのお米の食べ方が書かれている。つまり、少ない米で作れるかさ増し料理だ。さまざまな創意工夫に、制限の中で少しでも食を楽しもうとする人々の前向きさやたくましさが感じられた。

 

ちなみに、先日の新聞で、釜揚げ蕎麦が生まれた由来について「出雲の神在祭では屋台で茹でたそばを水でしめられなかったから」というようなことが書かれていた。祭りと飢饉とでは制限の度合いがあまりにも違うとは言え、制限された環境下から新たな食文化が生まれるというのは非常に興味深い。

 

冒頭の「知恵泉」によると、江戸に住む人たちの米消費量は1日5合。私は1日3.5合が基本で同年代の女性よりは多いかなあと思っていたけど、さらに1.5合も多いということか。

 

「名飯部類」の炊き込みごはんやお粥はかさ増し目的ではなく米料理を楽しむためだとしても、具材を入れたり水分を多くすると、どうしてもかさは増す。5合の体感量はもっと多そうだ。江戸の人たちは健啖家だったのだろうか。

 

とは言え、「江戸の街は肥満だらけだった」とは聞いたことがない。「お米は太る」と言う人たちもいるが、お米ではなく他のものが太る原因であることは1日5合の数字から見ても明らかではないだろうか。どうかお米のせいにしないでほしい。

玉子丼で白飯を食べる

玉子丼が好きだけど、以前は白飯の上に玉子とじをのせるのが好きではなかった。

 

白飯と玉子とじは別々に食べるのが好きで、蕎麦屋で玉子丼をセパレートしてもらったこともある。今思い返すと迷惑な客だ。

 

でも、今は白飯に玉子とじがのった玉子丼のほうが見た目やどんぶりのずっしり感に幸福感を覚える。そして、ただひたすら一つのどんぶりに集中できるという突っ走り感にも魅力を感じて玉子丼が好きになった。

 

ところが、注文して出てきた玉子丼が「つゆだく」だとたちまち気分が萎える。白飯は白飯として食べられる部分を残してほしい。甘じょっぱい玉子丼を白飯でリセットしたいし、たまに箸休めに白飯を食べたいし、最後のひとくちは白飯で終わりにしたい。玉子とじという料理の性格上、汁気があるのは重々承知しているが、どんぶりの底の白飯までつゆに浸っていると悲しい。

 

玉子とじに対する白飯の割合を増やして大盛りにしてみようかと思ったけど、店員さんが気を利かせたつもりで具やつゆも増量してしまいそうなのでやめた。良い方法はないかと考えてたどり着いたのは、玉子丼をおかずに単品白飯を食べること。先日、実際にやってみたら、甘じょっぱい玉子丼を白飯でリセットできたし、たまに箸休めに白飯を食べられたし、最後のひとくちは白飯で終わりにできた。

 

ちなみに、その時に食べた玉子丼は「サザエ丼」の名称で、サザエを玉子とじにしていた。神奈川県の江ノ島では「江ノ島丼」と呼ばれているらしい。そして、エビフライを玉子とじにしたものは神奈川県鎌倉市では「鎌倉丼」。

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玉子丼はタマネギを玉子とじにしたものが圧倒的に多いけど、近所の食堂では長ネギを玉子とじにしている。京都で食べた油揚げと青ネギを玉子とじにした「衣笠丼」もおいしい。他にも、油麩とじ丼、湯葉とじ丼、親子丼、カツ丼、ハイカラ丼、木の葉丼など、玉子とじの丼物はめちゃくちゃ多い。


なんでも玉子でとじておいしくしてしまう「玉子とじ」という料理はすごい。しかもそれを白飯にのせちゃうとはおいしいに決まっている。玉子とじ丼レシピを集めた本があったら是非とも欲しい。タイトルは「なんでも玉子とじ」とかどうだろう。

料理する乳児

白飯をおかずなどと一緒に食べて口の中で調味する「口中調味」は日本特有の食習慣である、と聞いたことがある。

 

たしかに海外に行くと、スープや具や調味料と一緒に火を通しているお米料理が多い。水だけで炊いた白飯だとしても、おかずをかけたりソースをまぶしたりして食べる「口外調味」だ。

 

子どもたちは、親が食事する様子を見て、自然と口内調味を身につけていくのだろうと思っていた。

 

でも、口内調味って本能的な部分もあるのかもはしれない。1歳の娘を見ていて、そう思うようになった。

 

娘は味噌汁が大好きだ。ごはんやおかずを食べなくても味噌汁ならば飲む。味噌汁のおかわりを欲しがることもあるので、味噌汁でお腹いっぱいになってしまわないように、食事の締めに味噌汁を飲ませることにしている。

 

先日、娘はほとんどおむすび手をつけなかった。しかし、味噌汁を飲み始めた娘は、おもむろにおむすびに手を伸ばした。そして、おむすびを一口食べると、まだおむすびが口に入っているうちに、また味噌汁を飲んだ。そして、またおむすびを食べ、また味噌汁を飲み…と繰り返した。そして、とうとう味噌汁とおむすびを完食した。

 

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口内調味を教えたわけではないので、おむすびの味を知り、味噌汁の味を知ったことで、「これはどうやら一緒に食べるとおいしそうだ」と感じるのだろう。

 

最近はおむすびを味噌汁の中へ放り込もうとする。なるほど「ねこまんま」はこうして生まれたのかもしれない、と小さな感動を覚えた。

 

先日は蒸したサツマイモと味噌汁でも交互に食べて口中調味を楽しみつつ、サツマイモを味噌汁の中に放り込んだ。そして、味噌汁に手を突っ込み、味噌汁に浸ったサツマイモを食べた後、味噌汁を飲んでいた。なるほど「サツマイモの味噌汁」はこうして生まれたのかもしれない、とまた小さな感動を覚えた。

 

料理が生み出されるのは経験や知識や感性の賜物だと思っているけど、まだわずかな食材や味付けしか体験していない1歳児でもその一端に触れているのだと感じさせられる。

 

料理が好きな人もいれば、好きではない人もいれば、得意な人もいれば、不得意な人もいる。でも多くの場合、「食べること=料理すること」になっているのかもしれない…と思えた。

つまり、何かしらの味の調整をしていれば、それは料理なのではないか、と。たとえスーパーの惣菜コロッケにソースをかけて白飯のおかずにすることは、ソースで調味をして、白飯と一緒に口内調味をするという2度の調味を行なっている。

 

これまで惣菜コロッケを買うことは料理ではない!と思っていたが、娘の食行動によって考え方が変わった。料理にはさまざまなレベルがあり、惣菜コロッケにソースをかけることや口内調味することは、コロッケを手作りすることやソースを手作りすることとは違うレベルの料理なのだ。

 

先日は娘が味噌汁に白飯を入れようとするのをつい阻止してしまったが、今度娘が味噌汁に白飯を入れようとしたら止めずに好きにさせてみようと思っている。娘がどうやって味噌汁に浸った白飯を食べようとするのか、とても知りたい。

米の廃棄ロスをなくすには

新型コロナウイルスの影響で、お米の消費量が減っているそうだ。

 

飲食店から客足が遠のいたり、営業を自粛したり営業時間を短縮したりしていることを思えば、お米を炊く量は減っていることが想像できる。

 

常に、周囲ではステイホームや外食控えで自炊が多くなったことで「家でのお米の消費量が増えた」という声を数人から聞いた。

 

人口は変わらないのに全体のお米の消費量が減ったのはなぜか。

 

自宅では炊飯しないという人もいるという理由もあるけど、一番な理由は飲食店での廃棄ロスが減ったから、らしい。多くの飲食店に米を卸している米屋から教えてもらった。

 

非常に複雑な気持ちになる。米の消費が減ることは悲しい。飲食店や米屋や米農家が苦しむのは悲しい。しかし、米の廃棄ロスが減るのは嬉しい。

 

根本的に何かがおかしいと思ったのは、米農家の反応だ。米を廃棄されてしまうことを悲しむ農家もいるが、米の廃棄ロスはありがたいと話す農家もいた。とは言え、前者も後者も米を一生懸命に作っているし、少しでもおいしく高品質になるように研究しているし、自分が作った米には思い入れもある。米の廃棄ロスがありがたいと話すのは、そう以外経営が立ち行かなくなってしまうからだ。

 

米を作りすぎていると言う人もいると思う。しかし、米の消費減に合わせて生産量を減らしていくのではなく、生産した米がはけて行くように米の消費が増えてほしい、と私は思う。

 

米を中心とした日本の米食文化や田んぼの風景を将来続く繋いでいきたいと常々願っているが、たとえなんとか繋がっていったとしても、それが米の廃棄ロスのおかげというのはあまりにも悲しい。

 

朝食がバイキング形式のホテルに泊まると、「余ったごはんやおかずたちはどうなるんだろう…」といつも気になる(ちなみに大抵ごはんは大量にどかんと炊かれていて、パーティーサイズのアイスを削るようにごはんがよそられてしまっているので、しゃもじでほぐしてからよそる。少しでもごはんの状態を良く保つために、自分がよそった後も次の人のために少しほぐす)。

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ホテルの朝食バイキングのごはん。大量炊飯ってむずかしいよね…といつも思う。

ごはんをおかわりに行くと、最初によそったときよりは減っていても、まだまだ底が見えない。従業員の人たちがまかないで食べているのだろうか。あるいは廃棄されてしまうのだろうか。まさかホテルのレストランのランチやディナーで出されたりしないよなあなどと、ごはんの行方がいつも心配になる。

 

なるべく余らないように炊飯すればいいのに…と思うが、以前に定食屋が閉店する1時間前に入店したところ、「ごはんがもうないので麺のメニューしかできないんです」と言われてめちゃくちゃショックだった。定食屋に着くまでの間、玉子丼にするか目玉焼き定食にするかを悩んでウキウキしていたのに。

 

米が食べられないのでせめて鵺米を食べようと餅入りの鍋焼きうどんを食べたが、店を出た後も夫に「なんでごはんがないんだよ〜」としつこく愚痴をこぼしていた。

 

こういう客がいるから飲食店はごはんを多めに炊くんだよね。廃棄ロスを減らすためには、まずは客が完売に寛容になることが大事だと反省したのだった。

「手抜き」が料理の手間を奪う

料理レシピを検索していて作ってみたい料理を発見しても、材料に「めんつゆ」と書いてあると断念せざるを得ない。うちにめんつゆはないからだ。
 
時短や簡略化は悪いことではない。めんつゆの使用は個人の自由であり、めんつゆや惣菜や冷凍食品などをフレキシブルに使おうという業界やメディアからの発信は、多くの人たちの心を軽くしてくれていると思う。
 
ちなみに私はいま田舎に住んでいるが、田舎の中高年層はめんつゆを使う人が特に多いような気がしている。
 
先日、同じ町内に住む同世代の女性からこんな話を聞いた。
 
彼女は私と同様に料理にめんつゆを使わない。ところがご近所のおばさまから、料理に使うめんつゆを切らしてしまったから貸してほしいと言われ、麺用に手作りしためんつゆを貸した。
 
すると、しばらくしてから貸した手作りめんつゆを手に戻ってきて、「このめんつゆはダメなめんつゆだ」と言って返されたそうだ。
 
もしかしたら自家製めんつゆは料理に使うには薄かったのかもしれないが、それよりも「料理用のめんつゆは家庭に常備されているものである」とこのおばさまが認識していることに驚いた。
 
郷土料理や地域の家庭料理においても、すでにめんつゆ必須のレシピが多数存在する。作り方を聞いて「めんつゆ」と言われると、郷土料理や家庭料理の魅力である多様性が失われてしまっているように感じられて残念な気持ちになる。めんつゆがなくては料理が作れないのは不自由感もある。
 
繰り返すが、時短や簡略化は決して悪いことではない。ライフスタイルは人それぞれだからだ。家庭環境や仕事環境や価値観などによって手間を省こうが、手間をかけようが、自由だと思う。
 
でも、最近はやたらと時短や簡略化ばかりを善とする雰囲気があり、めんつゆに感じるような居心地の悪さがある。
 
なぜ時短や簡略化ばかりを善とする声が多くなっているのか。その理由は、家庭での家事負担のアンフェアさにあると思う。最近は、冷凍餃子を「手抜き」と言ったり「ポテトサラダくらい作ったら」と言ったりする男性がいるそうで、ツイッターで話題になっていた。
 
育児や家事などをしながら餃子を作ったりポテトサラダを作ったことがない男性の妄言だと思うが、こういう男性がいるからこそ、時短や簡略化を推奨する声が増えてきた側面もあるのではないだろうか。めんつゆや冷凍食品や惣菜の普及が今後ますます加速していくと、自分で料理に手間をかけて作ることに価値を置く人が絶滅危惧種になってしまうかもしれない。
 

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わが家のポテサラの具材はキュウリのみだったりニンジンのみだったり、たまにキュウリとニンジンの両方が入っているだけ。生タマネギと肉は苦手なので入れない。自分では「手抜き」と言うが、「手抜きだね」と言われたらちょっとムッとするかも(写真はフリー素材)

料理に手間をかけることばかりが善だと押し付けるつもりもないし、私も育児中のためなかなか料理に手間暇をかけられないが、それでも食材の命をいただく「料理」という作業を大切に思う価値観は持ち続けていたい。
 
きっと多くの人たちが忙しい日々の中、理想と現実のあいだで葛藤しながら料理しているんだろう。
 
「手抜き」という想像力に欠けた発言こそが、料理に手間をかけることを大切に思う価値観を台所から奪っているのだと気づいてもらいたい。