柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

「手抜き」が料理の手間を奪う

料理レシピを検索していて作ってみたい料理を発見しても、材料に「めんつゆ」と書いてあると断念せざるを得ない。うちにめんつゆはないからだ。
 
時短や簡略化は悪いことではない。めんつゆの使用は個人の自由であり、めんつゆや惣菜や冷凍食品などをフレキシブルに使おうという業界やメディアからの発信は、多くの人たちの心を軽くしてくれていると思う。
 
ちなみに私はいま田舎に住んでいるが、田舎の中高年層はめんつゆを使う人が特に多いような気がしている。
 
先日、同じ町内に住む同世代の女性からこんな話を聞いた。
 
彼女は私と同様に料理にめんつゆを使わない。ところがご近所のおばさまから、料理に使うめんつゆを切らしてしまったから貸してほしいと言われ、麺用に手作りしためんつゆを貸した。
 
すると、しばらくしてから貸した手作りめんつゆを手に戻ってきて、「このめんつゆはダメなめんつゆだ」と言って返されたそうだ。
 
もしかしたら自家製めんつゆは料理に使うには薄かったのかもしれないが、それよりも「料理用のめんつゆは家庭に常備されているものである」とこのおばさまが認識していることに驚いた。
 
郷土料理や地域の家庭料理においても、すでにめんつゆ必須のレシピが多数存在する。作り方を聞いて「めんつゆ」と言われると、郷土料理や家庭料理の魅力である多様性が失われてしまっているように感じられて残念な気持ちになる。めんつゆがなくては料理が作れないのは不自由感もある。
 
繰り返すが、時短や簡略化は決して悪いことではない。ライフスタイルは人それぞれだからだ。家庭環境や仕事環境や価値観などによって手間を省こうが、手間をかけようが、自由だと思う。
 
でも、最近はやたらと時短や簡略化ばかりを善とする雰囲気があり、めんつゆに感じるような居心地の悪さがある。
 
なぜ時短や簡略化ばかりを善とする声が多くなっているのか。その理由は、家庭での家事負担のアンフェアさにあると思う。最近は、冷凍餃子を「手抜き」と言ったり「ポテトサラダくらい作ったら」と言ったりする男性がいるそうで、ツイッターで話題になっていた。
 
育児や家事などをしながら餃子を作ったりポテトサラダを作ったことがない男性の妄言だと思うが、こういう男性がいるからこそ、時短や簡略化を推奨する声が増えてきた側面もあるのではないだろうか。めんつゆや冷凍食品や惣菜の普及が今後ますます加速していくと、自分で料理に手間をかけて作ることに価値を置く人が絶滅危惧種になってしまうかもしれない。
 

f:id:chihoism0:20200913135120j:plain

わが家のポテサラの具材はキュウリのみだったりニンジンのみだったり、たまにキュウリとニンジンの両方が入っているだけ。生タマネギと肉は苦手なので入れない。自分では「手抜き」と言うが、「手抜きだね」と言われたらちょっとムッとするかも(写真はフリー素材)

料理に手間をかけることばかりが善だと押し付けるつもりもないし、私も育児中のためなかなか料理に手間暇をかけられないが、それでも食材の命をいただく「料理」という作業を大切に思う価値観は持ち続けていたい。
 
きっと多くの人たちが忙しい日々の中、理想と現実のあいだで葛藤しながら料理しているんだろう。
 
「手抜き」という想像力に欠けた発言こそが、料理に手間をかけることを大切に思う価値観を台所から奪っているのだと気づいてもらいたい。