柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

モチなし正月

鏡餅をこしらえたときにお父ちゃんから余った餅をもらった。さっそく「つゆ餅」と「納豆餅」を作って食べた。

f:id:chihoism0:20181229105934j:plain

納豆もち

これで来年1月15日まで餅は食べ納めらしい。なぜなら、福島県会津地方の嫁ぎ先では正月に餅を食べない。お雑煮は地方によってさまざまだと言うけど、「お雑煮」という存在がなかった。代わりにある似たような餅料理は「つゆ餅」といって、大根の千六本と細く切った油揚げを入れた醤油味の汁に餅を入れた料理。でも、これも正月には食べない。

 

嫁ぎ先では、田植え終了後の「さなぶり」や稲刈り終了後の「かっきり」、その他季節行事など、年間にわたってことあるごとに餅をつき、「ハレ=餅」のイメージがあるのに、お正月だけはなぜか餅を食べない。

 

不思議だなあと思って調べてみると、奥会津の「モチなし正月慣行」に関する論文を発見した。「モチに対して極めて強い禁忌を有している」家もあるそうだ。「日本全国お雑煮マップ」など地域のお雑煮をまとめたものもあるので、てっきり正月にはどの地域でも餅が入ったお雑煮を食べるものだと思い込んでいた(「お雑煮研究所」によると、徳島県北部の山間部では『餅なし雑煮』を食べるらしい)。

 

日本の食文化は地域ごとにまだまだ多様性が残っている。とは言え、「正月といえば餅」という食文化で過ごしてきたので、正月に餅を食べないのはちょっとさみしい。

 

私の実家では、東信州出身の母の文化と湘南出身の父の文化が混ざった正月料理だった。結婚は文化の融合。というわけで、元旦だけは餅入りの雑煮を作ることにした。東信州と湘南と会津の融合。家庭料理はそういうものだと思う。

プラスチックじゃない鏡餅

年の瀬の27日、夫のお父ちゃんとお母ちゃんと一緒に鏡餅をつくった。

 

神奈川県の実家に住んでいたころは鏡餅といえばプラスチックのパックに入ったもの買って飾っていた。でも、あのプラスチックの質感がどうも好きになれず、東京で一人暮らしをしていたときは鏡餅は買わなかった。

 

福島県にヨメに来て、当たり前のように鏡餅を作ることに驚いた。しかも、美しい。こういう鏡餅ならば飾りたい。年が明けて、松が取れて、日が経つにつれてヒビが入ったり、カビが生えたりする様子を見ていると、「もうすぐお正月!」という年末のあのウキウキ感がなつかしく感じられる。プラスチックでは得られない感傷。それに、「鏡餅には年神様が宿る」と言われても、プラスチックだとどうも年神様が宿っているにように見えない。それが良いとか悪いとかではなく。

f:id:chihoism0:20181228110410j:plain

手作り鏡餅

 鏡餅は1家に1つだと思っていたら、夫の実家では玄関や部屋に大きいものを2つ、神棚に小さいものを4つも飾る。大きいものは三段重ね、小さいものは二段重ね。さらに、31日の夜に近所の地蔵堂に昆布を添えた鏡餅をお供えに行く。

 

実家にいたころは鏡餅に対して「正月らしい飾りの一つ」「15日の鏡開きにお汁粉を食べるため」くらいにしか思ってなかったけど、ヨメに来てからは「鏡餅には年神様が宿ってるんだなあ」と初めて思えるようになった。

クリスマスはシャケ

昨日のブログで書いた「怪盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」は、クリスマスイブの前日に友人の家でたまたま見たアニメ。「ギャングラー怪人サモーン・シャケキスタンチン」が「日本人ならシャケを食えー」と言いながら、街中の肉屋を脅して店頭からチキンを撤去させてしまうという内容だった。肉屋は「年に一番の稼ぎ時なのに」と嘆き、客たちは「チキンが食べたい」と悲しんだ。シャケの化け物は肉屋でチキンの代わりにたくさんのシャケの切り身を置いて行った。いいやつ。

f:id:chihoism0:20181226230638j:plain

クリスマスにはシャケを食え?

 

チキンが食べられずシャケが好きな私にとっては素敵なクリスマスだなあと思った。私はクリスチャンではないので、クリスマスのなんたるかを分かっていない。幼稚園はカトリックだったのでクリスマスには教会でミサを行ったけど、制服がかわいいという理由で母が入園させただけなので、クリスチャンではない。

 

でも、クリスマスになると昨日のブログで書いたように「クリスマスっぽい」ものが食べたくなる。「クリスマスっぽい」ものを食べないと、「あー今年はクリスマスを楽しめなかった」とがっかりする。一方で、ギャングラー怪人サモーン・シャケキスタンチンがチキンを排除してシャケの切り身を食べろとせまる光景を見て「素敵なクリスマス!」と思う自分がいる。

 

この感情は何の仕業なのだろうと考えたら、私はどこかでチキンやケーキを食べて「クリスマスっぽい」食事を楽しんでいる人をうらやましく思っているのだと気づいた。つまり、昨日のブログでは「クリスマスっぽいもの=ヨーロッパ的なもの」と書いたけど、もっと言うと「クリスマスっぽいもの=チキンとケーキ」と思っているようだ。

 

怪盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャーでもチキンとケーキが出てきた。でも、みんながクリスマスにシャケの切り身を食べるようになれば、「クリスマスっぽいもの=シャケの切り身」になる。だから、怪盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャーを見ながら悪役設定のギャングラー怪人サモーン・シャケキスタンチンを応援していた。でも、こういうアニメは勧善懲悪が基本。ギャングラー怪人サモーン・シャケキスタンチンはレンジャーに倒されて「アスタキサンチーン」と言いながら消えてしまった。

クリスマスっぽいもの

実家で暮らしていたころ、肉も乳製品もダメな私は、家族がチキンの丸焼きやケーキを楽しむ中、1人でごはんとみそ汁を食べていた。のけ者にされていたというわけではなく、ごはんとみそ汁が食べたかっただけ。母はワガママな私のために味噌汁や煮物などわざわざ別メニューをこしらえてくれた。

 

一人暮らしをするようになってからクリスマスをどう過ごしていたか驚くほど覚えていない。あまりクリスマスを意識していなかったのかもしれない。でも、最近は「クリスマスっぽい」ことがしたいと思うようになった。

 

普段の食卓はごはんとみそ汁と日本酒がお決まりだけど、クリスマスは「クリスマスっぽい」ものを食べてワインを飲みたい。しかし、「クリスマスっぽいもの」って何だろうと考えると、なぜかイタリアンとかフレンチが思い浮かぶ。パエリアでも悪くない。いずれにしてもヨーロッパ的なもの。

 

私はいつからそんなイメージを持つようになったんだろう。「クリスマスっぽいもの=ヨーロッパ的なもの」。このイメージを持っているのは私だけではないはず。

 

今年のクリスマスイブの前日に友人の家でたまたま見た「怪盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」でも、「フランスのケーキ」とか「フランスのチキン」が登場していた。もしかしたら、子どものころに見たアニメによって「クリスマスっぽいもの=ヨーロッパ的なもの」というイメージが植え付けられたのかもしれない。

 

というわけで、昨年からわが家のクリスマスディナーは「クリスマスっぽい」ものを目指した(あくまで目指した)。でも、やはりお米が食べたい。

 

リゾットってどかっと食べるものではないよねと思うし、パエリアは作るのが難しそう。どかっと食べることができるクリスマスっぽいお米料理はないかなあと考え、作ったのはライスコロッケ。昨年に続き今年も作り、わが家のクリスマスメニューとして定番化した。

 

f:id:chihoism0:20181226223224j:plain

本当はケチャップごはんの中心にとろけるチーズを入れるとおいしいらしいけど、私はチーズが食べられないので、たとえ夫の分だけチーズを入れたとしてもロシアンルーレットになるから入れない

作り方は、玉葱を入れたケチャップごはんをまん丸にして衣をつけて揚げるだけ。「日本のお米でも『クリスマスっぽい』料理は作ることができるよ!」とみんなに言って回りたい。「これのどこがヨーロッパ的なの?」と思う人もいるかもしれないけど、「ナイフとフォークで食べればヨーロッパ的」という単純な感覚を持っているのは、きっと私だけではないと思う。

「知ったかぶり」ならぬ「知らなかったぶり」

「既知の未知化」という言葉を聞いたことがある。知っているけど、無意識に知らないふりをしていること。 最近、自分がお米について取材している時のICレコーダーを聞いて、自分の既知の未知化に落ち込むことがある。

 

たとえば、お米について私が知っていることがある。でも、相手が話し始めたとき、私が「ああ、そうですよね」とか「ええ、存じています」などと言わなければ「カシワギはこれを知らないな」と思う。そのため、そのことについてとても詳しく説明してくれる。その繰り返しで取材時間がなくなってしまい、本当に聞きたいことを聞く時間がなくなる。そんなことが先日あった。

 

さらに、その取材ではお米の専門的な内容を掘り下げていきたかったのだけど、「こんなことも知らないやつにはあのことを話してもきっとわからないだろう」と判断されてしまったように思う。せっかくの機会だったのに、深い話までたどりつけなかった。

 

なぜこのような事態に陥るのか考えてみた。まず、私は記憶力が悪い。というか、記憶が引出しの奥のほうに入り込んでしまう。なので、取り出すのに時間がかかる。

 

既に取材や文献や実験などで知っていることがあっても、最初は頭の引出しの奥のほうにある。だから、相手がその話題について話し始めたとき、私は自分がすでに知っていることを忘れている。すると、そんな私の反応を見た相手は「カシワギは知らないな」と判断して、イチから説明してくれる。でも、たいてい相手が話し始めて5秒後くらいに思い出す。でも、今さら「あ、私それ知ってました」とは言えない。たとえ、相手が話し始めた当初から自分がその話を知っていることに気づいて、「ああ、そうですよね」と言ってみても、相手に聞こえていないことが多い。「知ったかぶりしてるな」と思われてしまうのかもしれない。

 

そして、新聞記者時代の口癖で取材時に相手が言うことに対して「なるほど」と言ってしまう。もちろん本当に「なるほど」と思うこともある(基本的にそちらのケースのほうが多い)。でも、相づちで「なるほど」と言ってしまうこともある。「あなたを肯定していますよ」と無意識に表現しているからだと思うのだけど、これは誤解を招く。「あ、やはりカシワギはこのことを知らなかったのか」と相手が判断して、「こいつは何にも知らないなあ」と思われて、より大枠の話ばかりが細かくなっていく。

 

新聞記者時代はそれでも良かった。というか、そのほうが良かった。知っているつもりで知らないこともあるし、知らないふりをしてお話をうかがっていると、思わぬおもしろネタをキャッチできることもあった。私が知っていることが間違っている可能性もあるので、たとえ知っていても、大事な点についてはしつこいくらいに聞き直すべきだということを大変お世話になった上司に教わった(その上司の取材の仕方は本当に本当にしつこかった)。

 

知っているつもりになっていると見えるものも見えなくなってしまう危険性があるという側面もある。 ただ、お米に特化したライターである以上は、いつまでも「私、知りません」というふうな取材の仕方はダメだと思う。既に知っていることに対して「なるほど」と言ってしまう癖もやめよう。クリスマスイブの今日、カップルでにぎわうカフェにて1人ICレコーダーを聞きながら、来年の抱負が見つかった。あと7日で今年が終わり、来年が始まる。

f:id:chihoism0:20181224234438j:plain

クリスマスイブの夕食はライスコロッケ

 

エビ丼と玉子丼

近所の定食屋の品書きには、「エビ天丼」の横に「エビ丼」と書かれている。

エビ天丼はエビの天ぷらが乗っている丼だとすぐに分かるけど、エビ丼って何だろう。

 

注文してみると、その正体は、エビフライを玉子とじにした丼。厚めの衣がサクサク、中のエビがアツアツ、玉子とじの甘じょっぱい味付けと、卵のとろとろ。その下には、大盛りの白ごはん。夢のようなメニューだった。

 

以来、その定食屋に行くといつもエビ丼を注文…したいところだけど、注文しない。いつも食べるのは、エビフライがない玉子丼。夢のメニューはいつも食べたくない。

f:id:chihoism0:20180707111752j:plain

夢のメニュー「エビ丼」

夢のメニュー、つまり自分にとって特別感がある食事はたまに食べるから感激するのであり、毎日食べてしまったら感激がなくくなってしまう。鮨はたまに食べるからおいしいし、うな重もたまに食べるからおいしい。

 

だからと言って、玉子丼をエビ丼よりも下に見ているわけではなく、むしろ玉子丼は私にとっては頻繁に食べても飽きないすごいメニューだと思っている。そういう意味では、ごはんとみそ汁は毎日食べても飽きないすごいすごいメニューだと思う。

 

先日の結婚記念日のランチはその定食屋のエビ丼が食べたいと夫にリクエストした。定食屋の息子さんは「せっかくの結婚記念日にうちに来るなよ!」と夫に冗談まじりに言っていたそうだけど、エビ丼は「ハレ」、玉子丼は「ケ」と使い分けていると、いつもの定食屋でも、たちまち特別感のある食事を楽しむことができる。

 

ケの食卓はハレの食卓を際立たせてくれる要素があると思う。ハレの食卓を楽しむためにも、ケの食卓を大切にしたい。

「あの」里芋のみそ汁

先日、稲に詳しい農学者の佐藤洋一郎さんを取材させていただいたときに、「おいしさとは何か」という話になった。

 

その中で「おいしさとはナラティブ」という佐藤さんの言葉が印象に残った。「ナラティブ」とは英語圏で「語り」という意味。「近年は『糖度何パーセントだからおいしい』といった訴求ばかり。でも、メニューを見せられただけではわからない1人1人のストーリーが料理の背後にある」とおっしゃっていた。

f:id:chihoism0:20181221161048j:plain

ご近所のご婦人たちが集まって作った「こづゆ」。郷土料理にはたくさんの「ナラティブ」が詰まっているように思う

 私が新聞記者をしていたときに書いた記事の一つに「戦争と食」という連載がある。

 

当時、病気療養中で会社を休んでいたが、早く取材がしたくてたまらず、毎日のように図書館に行って資料を探したり、本を読みまくったり、何かしらを書いていた。その中で、第二次世界大戦時の人々の食卓について書かれたさまざまな資料を読んでいるうちに、当時を知る高齢者の方々に戦時の体験を当時の食体験に絡めて語っていただこうと思った。復職してすぐに企画書を出して5回の連載を書いた(うち1回は他の記者が担当してくれた)。

 

その中で、神奈川県平塚市に住む男性が語ってくれたエピソードが印象深かった。

 

市内で空襲を受けて重傷を負い、祖母が住む田舎に疎開した。朝、目が覚めると、いろりで鉄鍋に入った里芋のみそ汁がコトコト煮えていた。熱々の汁をすすると、安堵感が心身にしみ渡った。

 

今もあの里芋のみそ汁が忘れられず、アルミ鍋に鉄くぎを入れてみたりと再現を試みるが、「どうしても“あの味”が出せない」と男性は言った。

 

その後、記事を読んだ地元の高校生たちが「ぜひ男性に戦時のお話をうかがい、里芋のみそ汁を食べてもらいたい」と言って、男性を高校に招いて里芋のみそ汁を作った。男性はうれしそうに食べたが、「“あの味”とは違う」と言う。

 

私は男性が「違う」と言うのを聞いて、なぜか安心した。食べものの思い出ってそういうものだと思う。