柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

おべんとうばこのうた

夫から衝撃の知らせが届いた。

 

「おべんとうばこのうた」の歌詞が、「♪おにぎりおにぎり」じゃなくて「♪サンドイッチサンドイッチ」になっているという。

 

調べてみると、サンドイッチ版は

 

「♪これっくらいの/おべんとばこに/サンドイッチ/サンドイッチ/ちょっとつめて/からしバターに/マヨネーズぬって/いちごさん/ハムさん/きゅうりさん/トマトさん/まるいまるい/さくらんぼさん/すじのはいったベーコン」

 

だそうだ。

 

ちなみに、従来のおにぎり版は

 

「♪これっくらいの/おべんとばこに/おにぎり/おにぎり/ちょっとつめて/きざみしょうがに/ごましおかけて/にんじんさん/さくらんぼさん/しいたけさん/ごぼうさん/あなのあいた/れんこんさん/すじのとおった/ふーき」

 

だった。

 

さくらんぼさん」なんて入っていただろうか。なぜか子どものころ歌った曲では「さくらんぼさん」と「しいたけさん」の記憶がない。 

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フリー素材写真の検索で「お弁当」と検索すると、ごはんとおむすびのお弁当ばかり出てくる。「お弁当」はまだお米が主流。

 それにしても、サンドイッチになったのはなんでだろう。

 

子どものころから、「お弁当」と言えば、「ごはん」か「おむすび」だった。幼稚園のころは、お弁当がサンドイッチという子はクラスに1人か2人しかいなかった。なんだかオシャレに見えたけど、情報が少ないはずの幼児が、なぜサンドイッチに「オシャレ」と感じたのだろう。おそらくサンドイッチを持ってきていた「ともこちゃん」の髪の毛が長くてサラサラで、いつも違う色の髪飾りをつけていたせいかもしれない。

 

私の思い出の母のお弁当は、ふりかけごはんだった。水泳の試合で持たされたのは、ふりかけを混ぜたごはんに、なぜか具まで入っているおむすびだった。「ふりかけか具かどっちかにして!」と思っていた。

 

今でもたまに思い出してその話題になると、母は「どっちかだけだとさみしいかなと思って…」と言う。母なりの子を思う気持ちだったんだなあと思う。ふりかけの味と具の味で白ごはんがほしくなるおむすびではあったけど、子どものころの大切なお弁当の思い出として残っている。

 

「おべんとうばこの歌」のサンドイッチ版に限らず、すでに朝食は「ごはん派」よりも「パン派」が多いのが現状だ。家庭での炊飯量も減っている。これからの子どもたちのお弁当の思い出の味は、お米じゃなくてパンになってゆくのだろうか。

 

食文化というのは、先人から受け継がれて受け継がれて受け継がれてきたバトンを私たちが受け継ぐことができているからこそ、いま触れることができている。

 

もしかしたら私たちは長年受け継がれて来たバトンを落とす世代になっているのかもしれないなあ…と何とも言えない気持ちになる。

白飯と酢飯

刺身と白ごはんを食べるならば、ごはんに刺身が乗った海鮮丼よりも、ごはんと刺身が別になった刺身定食が好きだ。

 

海鮮丼は、ごはんがあたたかすぎると、ごはんの上で刺身があたたまってしまう。さらにガッカリするのは、ごはんが酢飯だったとき。過去に「ライスとナン」でも書いたけど、寿司は酢飯でもおいしいのに、海鮮丼の場合は酢飯だとがっかりする。海鮮丼は刺身と醤油と白ごはんの融合がおいしいと思う。注文前に酢飯かどうかを確認して、「酢飯です」と言われたときは注文を断念する。

 

以前に静岡県の沼津漁港でメニューを見て、生桜えびと生シラスと鯵の刺身が食べたいなあと思っていたら、まさにその3種類が乗った「ぬまづ丼」なるものがあった。白飯か酢飯かを確認したところ、なんと焼いた鯵の干物をほぐして鯖の出汁を入れた炊き込みごはん。炊き込みごはんと刺身って合うのだろうか。醤油は使うのだろうか。

 

「白ごはんに変えてもらえませんか」と聞くと、できないと言われたので、ぬまづ丼はやめて白ごはんと刺身を注文した。

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注文を断念した「ぬまづ丼」。白ごはんで食べたい。

寿司は酢飯がおいしいと思うのに、海鮮丼はなぜ酢飯だと残念に感じるんだろう。

 

海鮮丼を見るたびに、上に乗っている刺身よりも、その下のごはんが白飯なのか酢飯なのかが気になってしまう。

食べ残しを食べる

子どもが食べ残したものを親が食べている光景に、漠然とあたたかいものを感じる。

 

子どものころラーメン屋に行くと、父は「瓶ビール」と「レバニラ」と「ラーメン」と「半ライス」を頼んだ。父がビールでレバニラを楽しんでいる横で、私は半ライスの上にラーメンの麺だけを乗せて食べ、残りの麺や具やスープはレバニラを食べ終わった父が食べる…というのが定番だった。

 

他の店でも私が食べきれないものは、いつも残り物を父が食べてくれていた。

 

私が箸を付けたものを食べてくれる……というのは、少なくとも私のことが嫌いではない証明であると感じる。親子ならば当たり前と言われるかもしれないけど(ちなみに母も食べてくれる)。

 

大人になってからは、焼いたブリやシャケを食べているときに父から「皮もちゃんと食え」と言われても、かたくなに皮を残している。すると、父が皿にべろんと残った皮を食べてくれる。

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魚の皮は苦手

先日、食事会であいかわらず焼いたブリの皮を残した私に「柏木さん、食べないの」と言って、ひょいと皮を食べてくれたある社長がいた。私は思わず「お、お父さん…」と心の中でつぶやいた。

 

私はおそろしくネガティブな人間なので、じつは常に「この人から嫌われているのでは…」と思うところから人間関係がスタートしているのだけど、ああこの社長からは嫌われてないと思ってほっとした。

 

昨晩、がんもどきを揚げたら、思いのほか大きく作り過ぎ、1個食べたらお腹いっぱいになってしまった。それでも目が食べたくて、お皿に2個目のがんもどきをとって、おろし生姜を乗せて、醤油をかけたところで、あ、やっぱりお腹いっぱいだと気づいてしまった。「これは明日食べる…」と言って残そうとしたら、夫が「明日はこっちの新しいがんもどきを食べたらいいよ」といって、醤油まみれのがんもどきを食べてくれた。

 

人生において「こいつの食べ残しを食べてあげてもいい」と思ってくれる人は何人いるのだろうか。人によって、「誰のでも食べられる」という人もいれば「いや、たとえ配偶者のでも食べない」という人もいるかもしれないけど。1人でも2人でも私の食べ残しを食べてくれる人がいることはきっと感謝すべきことなんだと思う。

すっぱい中毒

これまでの人生はずいぶんと道を踏み外しながら歩いてきたように思う。崖から2度ほど落ちかけて、かろうじて指1本ひっかけて、なんとかその後も歩き続けてきた。

 

「こうあらねばならない」と自分を型にはめすぎて、苦しみぬいて、でもある日、道を踏み外しまくっている自分に気づき、「『こうあらねばならない』なんてものはない。すでに外れまくってるじゃないか!」と自分にツッコミ、目の前が晴れていった。

 

「こうあらねば幻想」から目が覚めたきっかけは、いろいろあるけど、そのタイミングで読んだ村上龍の小説「69」はインパクトがあった。主人公があまりにもめちゃくちゃで、「教科書通りなんてつまらないな」と思った。

 

というわけで、「私は教科書通りの人生は歩みません」と思っていた(そう思っているところが「こうあらねば幻想」の延長のような気もするけど)。

 

しかしながら、妊娠後の私は見事に「教科書通り」になっている。

 

一般的に「妊婦は柑橘類など酸っぱいものが食べたくなる」と言われている通り、やたらと柑橘類を食べたくなっている。こんなに柑橘類を購入しているのは人生で初めてかもしれない。

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すっぱい中毒

先日は近所のスーパーで買った「はるか」という柑橘が思ったほど酸っぱくなかった。そこで、会津若松市のバーの店主に教えてもらった愛媛県の「レモンジュース」を買って、「はるか」を浸して食べた。「レモンジュース」という名称ではあるものの、中身はレモン100%のストレート果汁。とても酸っぱい。おかげで酸味がものたりなかった「はるか」が格段においしくなった。

 

妊娠中の嗜好の変化は個人差があるはずなのに、思いっきり「教科書通り」。この「レモンジュース」をコップに注いでぐいっと飲みたい衝動にも駆られるけど、刺激が強すぎるような気がして自制している。

 

そして、一般的に「妊娠15週でつわりがおさまってくる」と言われている通り、15週0日目の午前からなんだかつわりが軽くなっていた。完ぺきにつわりがなくなったわけではないので気づいていなかったけど、14週6日目の夜はコロッケが食べたくなって久々に揚げ物を作ったら、友人から「揚げ物を食べてるのびっくり!わたし揚げ物は妊娠中あまり受け付けなかった」と言われた。そこで初めて、「あ、もしかしたらつわりが軽くなっているのかも…」と気づき、数えてみると15週目だった…というわけだ。個人差があるはずなのに…思いっきり「教科書通り」じゃないか。

 

「教科書通り」に事が進んでいることになぜか悔しい気もするけど、「こうあらねばならないと思ってはならない…というふうに思ってはならない…」という無限ループにはまらないように、そもそも私みたいなタイプは「教科書」をあまり見ないほうがいいのかもしれない。

“擬製米”のカリフラワー

先日、ネットの記事でごはんの代用食としてカリフラワーをみじん切りにした商品があることを知った。なんと某チェーンカレー店では、ごはんの代わりにカリフラワーのみじん切りを採用しているらしい。糖質制限ブームの延長だろうか。

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カリフラワーのみじん切りは冷凍食品としても販売されているらしい

 たしかに見た目はごはんのように白い。もしかしたら、カレーライスとしてはではなく、「カリフラワーのカレーソース添え」的な料理としては合うのかもしれないけど、味や食感はごはんの「代わり」にならないような…。

 

友人は「私の好きな筋子にはぜったい合わない」と言っていた。同感。

 

代わりというのは、「本当はAが良いんだけど、仕方ないからBにするか」というふうな妥協的な感じがある。「ごはんの代わりとしてのカリフラワー」は、食べてもらえないがごはんかわいそうだし、ごはんの代わりにされているカリフラワーもかわいそう。ただし、食物アレルギーの人にとっては「代わり」で食事が楽しめるのは良いことだけど。

 

私は肉を食べないし、大豆を原料として肉に似せて作られた「ソイミート」や「リンケッツ」なども食べない。肉の「代わり」とされている大豆へのリスペクトが感じられないし、肉が食べたかったら肉のつもりで大豆を食べるのではなく、肉と向き合って肉を食べたほうが、大豆にも肉にも誠実だと感じる。

 

私がカリフラワーや大豆だったら、「あっそうですか、私はごはんや肉の代わりですか、ふーん」と独りごちて、とても傷つくと思う。「代わり」とか「代用」ってなんとなく悲しい響きがある。

大盛りライスと濃いカレー

先日、「ニューデリー」というインドカレー店へ入った。

 

インド人とみられる人たちがスタッフで、建物は喫茶店かラーメン店だったような店の居抜き。テレビからはインド音楽のDVDが流れてくる。テーブルはちぐはぐで、カウンターに2つだけ置いてある椅子はパイプ椅子。壁にはインドビールの紹介やwifiの案内などが書かれた紙が貼られ、マジックで「Look at me!」と書かれている。

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気になる看板

大人たちには銀色の食器でカレーが提供されているのに、隣のテーブルの男の子にはなぜか味噌汁のお椀にカレーが入っていた。熱伝導で「あちち」とならない配慮だろうか。いずれにしても雰囲気がずいぶんと独特で、カレーを食べる前からすっかりニューデリーを気に入った。

 

注文した野菜カレーとサフランライスが出てくると、ライスの量に驚いた。大盛りって言ってないのに大盛りで出て来る定食屋のごはんよりも多い。一方で、カレーの量は普通。人によっては「ちょっと少なめだね」と言うかもしれない。

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分かりにくいけど、かなりの大盛りライス

 「これはごはんが余ってしまうかもしれないなあ」と言いながら食べ始めた。ところが、カレーの味がずいぶんと濃い。そして、「辛口」にしてみたら、かなり辛い(「激辛」にしなくて良かった)。おかげでライスがぐんぐん進み、定食屋の大盛りごはんよりも多く見えたライスが瞬く間に消えた。

 

そして、最終的にはライスとごはんの量が絶妙にピッタリだった。私は感動した。

 

そこで思ったのは、日本のごはんの消費量が減っている要因の一つとして、おかずの味付けの薄さにあるのではないかということ。かつては、塩が吹くほどしょっぱい塩シャケとか、甘辛い佃煮とか、昔は味の濃いごはんのおともが多かったのではないだろうか。ある時期から「減塩」という言葉が聞かれるようになり、薄味のおかずが好まれるようになると、ごはんを食べる量も減ったのかもしれない。

 

と言っても、デスクワークが増えたからとか、炊飯が面倒とか、あくまでいろいろある要因のうちのたった一つに過ぎないけど。

 

とは言え、ニューデリーを出た後、夫と「濃かったねえ」とくり返した。そして、のどが乾いて水が飲みたくなった。でも、とてもおいしかった。しかし、「妊婦って塩分の摂り過ぎに注意って本に書いてあったなあ…」と少し気になった。

 

そうは言っても、ごはんはそんなに大量にお腹に入るものではない。普段はせいぜい1食で1合くらい。夫は一時期は1食で2合食べていたけど、一般的には多いほうだと思うし、それでも1食で2合だ。ということは、いくら味の濃いおかずを食べても、ごはんでお腹がいっぱいになれば、そこで「ごちそうさま」。塩分過多といってもそこまで塩分を摂りすぎないうちに食事が終わるのではないだろうか。

 

一方で、ごはんを食べずにおかずだけを食べると、お腹がいっぱいにならないので、おかずを食べ続けることになり、結果的に塩分はけっこう摂取するように思う。いくらしょっぱい漬物を食べても、たとえばたった2枚の漬物でごはんを2杯食べられるならば、たいした塩分摂取ではないように思う。

 

生米と水だけで調理できて、おいしくお腹を満たしてくれるごはんって、やはりすごい。ごはんを中心とした日本の食文化のすばらしさを、改めてニューデリーが教えてくれた。

かけ蕎麦に天ぷらまんじゅう

福島県会津地方には「天ぷらまんじゅう」という食べものがある。

 

薄皮まんじゅうに衣をつけて揚げたもので、関東でも「揚げまんじゅう」という名前で見たことがある。長野県出身の母も「学生時代に駅前の揚げまんじゅう屋さんで買って食べた揚げたてがおいしかった」と懐かしそうに言う。

 

というわけで天ぷらまんじゅう自体になじみはあったけど、驚いたのは夫が揚げまんじゅうをかけ蕎麦に入れて食べていたこと。「うちのばあさまもこうしてた」と夫。たしかに、天ぷらまんじゅうがメニューにある蕎麦屋もある。まんじゅうの小豆餡の甘さと、ツユのしょっぱさが絶妙にマッチするらしい。

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かけ蕎麦はネギ抜き

 この組み合わせに馴染んでいたからだろうか、夫は以前にホテルの朝食ビュッフェで驚愕の組み合わせの食事を楽しんでいた。

 

デザートを取りに行って戻ってきた夫の手には、チョコレートケーキと、なぜか味噌汁。交互に食べながら「絶妙に合う。これはすごい。発見だ」などと繰り返していた。きっとお汁粉を食べる時に漬物が添えられているイメージなんだろうと想像したら、ちょっと違うらしい。「チョコレートケーキにサンドされているラズベリーソースの甘酸っぱさがキモ」だそうだ。スウェーデンでミートボールを食べるときにジャムが添えられているイメージなのかもしれない(食べたことないけど)。むずかしい。

 

先日、「胎児のはなし」(増崎英明、最相葉月共著・ミシマ社)を読んだ。そこには、「父親のDNAが胎児を介して母親にも入っていることが最近になってわかりました」と書いてあった。もしかして、つわりって私の味覚や嗜好に夫の味覚や嗜好も混じってくることで起こるのだろうかなどと考えてみたりもした。

 

チョコレートケーキと味噌汁の組み合わせは永遠に理解できそうもないけど、もしかしたら、かけ蕎麦に天ぷら饅頭を入れて食べてみたら意外においしいと感じるかもしれない。