柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

お米と母乳

娘を出産後、母乳で育てている。早産で小さく生まれたこともあり、しばらくは2時間おきに授乳をするよう病院で指導された。

 

頻繁に授乳していると、やたらと喉が乾く。そして、お腹がすく。ごはんを3杯食べても驚くことに満腹感はうっすらとしか感じられない。

 

なんとなく、お米を食べると母乳が作られるような感覚がある。産前は昼食で素麺を茹でて食べたこともあったのに、今は素麺をまったく欲しない。あくまで個人の感覚的にだけど、麺やパンでは母乳が作れないような気がする。力仕事をする人が「米を食わないと力が出ない」と言うように、「米を食わないと母乳が出ない」と感じている。

 

そして、糯米は母乳に良いと聞いたことがあったけど、たしかに糯米を食べると母乳が増える感覚がある。産後の入院中、夫が持ってきたお盆用の餅粉の団子を食べたところ、効果てきめんだった。

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お盆にお墓で食べる餅粉の団子と枝豆

糯米とうるち米の違いはデンプンのアミロースとアミロペクチンの比率。糯米はアミロースが0%でアミロペクチンが100%。アミロペクチンが母乳に関係しているのだろうか。真相は不明だけど、感覚レベルでお米の偉大さを改めて感じた。

 

実は、破水の前夜にヨモギ餅と菱餅をこしらえていた私。切迫早産で安静に過ごすように言われていたにもかかわらず。

 

破水した時、前夜の行動をとても後悔した。餅をこしらえたことが破水の原因ではないとしても、安静にしていなかったことを反省し、病院へ向かう車の中で、お腹の子にごめんねと何度も謝った。

 

無事に出産して退院すると、夫がヨモギ餅を冷凍庫で保存しておいてくれていた。

 

大きなお腹でこしらえたこのヨモギ餅も母乳に変わるんだろうなあと思うと、なんだか感慨深い。

おいしい米って何?「味度メーター」に迫る

「おいしいお米」とは、どんなお米なのでしょうか。お米に関するさまざまな事業を展開している会社「東洋ライス」は、その指標を「味度(みど)」で表して、計測できる機械を開発しています。味度とはどんなもので、どのように知ることができるのでしょうか。なぜ味度が高いとおいしいお米と言えるのでしょうか。そして、どうしたら味度の高いお米を栽培できるのでしょうか? さまざまな「味度」の疑問に迫りました。

 

「おいしさ」とは「舌触り」と「歯触り」

お米には、香り、粘り、弾力、甘さ、うまみなど、さまざまな要素があります。このさまざまな要素の中でも、「光沢」と「粘り」こそがお米のおいしさを決める最大の要因であると30年以上前に発表したのが、東京農業大学客員教授であり、現在の「東洋ライス」代表取締役兼技術部長である雜賀慶二(さいか・けいじ)さんでした。

雜賀さんは、この粘りを生成する要因を解明し、「おねばの濃縮膜」、「保水膜」と名付けました。

お米を炊飯し始めると、米粒の表面からお米のでんぷんの溶解物「おねば」が出てきます。そして、釜(鍋)の中の水分が減ってくると、おねばは濃縮されて米粒の表面に再付着します。それが、おねばの濃縮膜、つまり、粘りです。炊飯後に外気に当たると、飯粒の表面を覆うおねばの濃縮膜の余剰水分が発散することで、飯粒の表面に張りができ、ツヤツヤと光る保水膜が完成するというわけです。

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私たちが粘りを感じるのは「口あたり」。つまり、「舌触り」や「歯触り」です。雜賀さんは、「おいしいお米」の粘りについて、こう説明します。

「やみくもにネチャネチャに粘っているというのではなく、一粒一粒がそれぞれ独立した状態。そして、粒の表面には粘りの膜がつややかに張られ、内部はそれよりも水分の少ない均一な弾性力を持っている状態です」

見た目はつやつやピカピカ。箸で持ち上げることができる粘り。口に入れると一粒一粒を感じられる。舌触りがなめらか。噛みこんでも粉っぽさやざらつきや水っぽさがない。

そんなごはんを食べたら、きっと多くの人が「おいしいお米だ」と思うでしょう。

 

おねばを洗い流したごはんはおいしくない

では、どうして口あたりが「おいしさ」を決めるのでしょうか。

雜賀さんがこんなユニークな実験をしています。

炊きあがったごはんをぐちゃっとつぶしてから食べる。
炊きあがったごはんの表面のおねばを湯で洗い流してから食べる。

すると、せっかくおいしく炊きあがったごはんは、いずれも「おいしくない」と感じるというのです。たしかに、たとえどんなにおいしく炊きあがったごはんでも、ぐちゃっとつぶしたり、おねばを流したりしてしまうと、ごはんとしてはおいしくなくなってしまいます。

私たちがそう感じる理由は、「ごはん」の特性にあるようです。

「ごはんにはかすかな甘みはありますが、『甘い』『辛い』『酸っぱい』『苦い』の四味の影響力は小さく、ほとんど味のない味と言えます。そのため、『口あたり』や『香り』が優先され、中でも『口あたり』が最もごはんの味に影響するというわけです」(雜賀さん)

ただし、これはあくまで“日本人にとっての”「おいしいお米」。海外では、この粘りを「重い」として嫌厭(けんえん)する国もあります。日本の米は粘性のある短粒種がほとんどですが、海外の米は粘性のない長粒種、中粒種が多い傾向にあります。調理法も、日本のようにおねばごと食べる「炊飯(炊き干し法)」に対して、海外ではおねばを捨てる「湯取り法」というふうに、粘りの扱い方や立ち位置に違いがあります。「粘り=おいしい」は、日本人ならではの感性なのです。

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精米の上手下手で「おいしさ」は変わる

こうしたごはんの粘りからおいしさの度合いを知ることができる技術を生み出そうと、7年ほどの開発期間を経て、今から約30年前の1990年に東洋ライスが発表した機械が「味度メーター」です。味度とは、飯粒の表面の「保水膜」の量を測定して100点満点で点数に換算したものです。

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味度メーターは、簡単に言うと、ごはんの光沢、つまり保水膜の厚さを計測する機械です。しかし、同じ米を炊いたごはんでも、精米方法や炊飯方法などによって保水膜の量は変わってしまいます。

そこで、同一条件で計測するためにいくつかの工夫がなされました。

味度メーターの計測に必要なのは、精米した33グラムの生米。平たい丸い容器に入れると、米粒が動かないように固定された状態でセットされ、熱湯の中に浸かります。これが「仮炊飯」。米粒が入った容器内からは米粒の表面に付いた気泡が抜けて水分が米粒に均一に行き渡るように工夫されています。

10分後、熱湯から出して3分蒸らします。その後、容器から煎餅状になった米を取り出して、計測器の中に投入します。あらゆる方向から光センサーで煎餅状の米の表面にある保水膜の厚さを測るという仕組みです。1検体につき、合計で14分30秒。米をセットしてから計測が終了するまでの一連の作業はすべて自動で行われます。

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「味度」の平均値は70点台。80点台は誰が食べてもおいしいと感じ、90点台が出るのは極めて少ない。90点台のお米は保水膜が厚いおかげで、炊飯後にしばらく置いておいてもツヤが保たれるそうです。

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また、お米の精米具合によっても、ごはんのおいしさ、つまり味度に影響が出ると雜賀さんは言います。

「精米が不足してお米の表面にぬかが残っていると保水膜の生成を阻害してしまいます。一方で、保水膜はお米の『うまみ層』にあり、このうまみ層が炊飯によって保水膜になるため、過剰な精米でうまみ層を削ってしまうと、保水膜が薄くなってしまいます」(雜賀さん)

 

味度メーターと〝ベロメーター〟はほぼ一致

「お米のおいしさを測るならば『食味計』もあるのでは?」と思う人もいるでしょう。食味計は味度メーターのようにお米の保水膜の厚さを測るのではなく、お米の成分を測る機械です。アミロース値やタンパク質、脂肪酸度などを測ることができ、総合点数(食味値)が高いほど「おいしいお米」とされています。つまり、米の成分から米の味や食感などを推測する方式です。

ただ、食味計では測れないのが、お米の劣化による食味の低下です。

以前に、ある農家が実験のために収穫後に玄米で低温保管していたという5年前のお米を、食味計で計測してから精米、炊飯して食べてみました。すると、収穫直後に農家が計測した数値と脂肪酸度も総合点数もほぼ変わらないのに、古米臭が強くて粘りもなくパサパサとしていて、食べるのが厳しいほど劣化していたのです。

一方で、味度メーターでは、お米が劣化すると保水膜も薄くなるため、点数は下がります。実際に、東洋ライスで社員を対象に行った、味度メーターと実食による相関を調べる実験では、人間の“ベロメーター(官能)”にほぼ一致しました。

 

味度の高いお米を栽培するためには?

では、味度が高い米を作るためにはどうすれば良いのでしょうか?
味度の高い米を作る農家に聞いてみました。

タンパク質含量が少ないと食味値は上がります。しかし、「タンパク質含量を下げて食味値を上げようとすると、味度値は反比例して低くなりやすい」と指摘するのは、「米・食味分析鑑定コンクール国際大会」国際総合部門金賞を連続受賞した新潟県南魚沼市の米農家・関智晴(せき・ともはる)さん。「やせた米では高い味度値は出ない」と言い、味度が高い米は「ぷりっと太っている」と教えてくれました。

食味値を上げるためにタンパク質含量を下げようとして、初期に化学肥料を入れて茎数を増やし、後半に肥料分を落として作る農家もいます。しかし、そうした栽培法では、基部未熟(米粒の先端が未登熟)になるなど、味度が低くなってしまうそう。「稲は周囲との茎数のバランスを分かっています。稲にとって予期しないことを起こさせないことが大切です」と関さんは言います。

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「登熟スピードがゆっくりだと味度が出やすいようです」と話すのは、同大会で何度も受賞経験がある岩手県奥州市の阿部知里(あべ・ちさと)さん。そのためには、田植えを遅くするなど、登熟温度を低くする必要があると言います。阿部さん自身、遅く田植えをして、「お米はタネなので、充実したタネは味度が高い」と考え、しっかりと完熟させてから刈り取っています。

しかし、それも地域と気候次第。阿部さんによると、北日本の寒い地方では田植えが遅すぎるとしっかりと登熟しきれず、逆に味度が低くなってしまう可能性があります。一方で、西日本の暑い地方では遅く植えても味度が出にくくなりがちですが、同じ西日本でも山間部などでは、タイミングが合えばゆっくりと登熟させることが可能です。

稲作は自然との戦いでもあり、調和でもあります。その年によって、作業の時期や内容で吉と出るか凶と出るかは、多くの場合、収穫時期まで分かりません。

「食味計で出る食味値、味度メーターで出る味度値、どちらか一方だけではなく、両方の機械で高得点を出す米を作ることが目標」と関さん。米農家は毎年が年1回の真剣勝負。そうしてできた「おいしいお米」をおいしい状態で食べるためには、栽培だけでなく、もみすり、乾燥調整、精米、流通、保管、炊飯をそれぞれベストな状態で行うことも重要です。「おいしいお米」に出会えたら、そのお米はきっとさまざまな工程の連携の賜物(たまもの)なのです。

 

マイナビ農業掲載)

のびたそうめんチャンプル

昼食に素麺をたくさん茹でておむすびをたくさん作ったら、素麺もおむすびも余ってしまったので、夕食に持ち越しとなった。

 

おむすびはそのまま食べるとして、素麺はどうしよう。ちょっと時間が経っただけで、すでにのびてしまい、固まっている。

 

そこで、冷蔵庫の中で中途半端に余っていたタマネギ、人参、ズッキーニ、ピーマンを胡麻油で炒めた後に、日本酒をかけてほぐした素麺を炒めて、チャンプルを作ってみた。味付けは塩こしょう。仕上げにちょっとだけ醤油を加えた。

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味をしめたので素麺はわざと多めに茹でようと思う

食べた夫は「うまい」「家庭料理っぽい」という感想をもらした。「『家庭料理っぽい』って…家庭料理だよ」と言いながら食べた私も「本当だ、家庭料理っぽい」と思ったので、そう口にした。

 

そこで、「家庭料理っぽい」とは何だろう??という疑問について、そうめんチャンプルを食べながら夫と考えた。

 

夫曰く、「クオリティーが低くてうまい」「ちょうどいいクオリティーの低さだけど、おいしい」「余り物で適当に作った、母ちゃんの味」「すげえうまいわけではないけど、料理に愛嬌がある」ということだった。

 

例えば、「お歳暮でもらったハムを分厚く切って焼いただけのハムステーキ」「残り物のごはんと卵とレタスだけで作った焼きめし」などなど互いに「家庭料理っぽい」ものを挙げては、わかるわかるーと言いながら2人でそうめんチャンプルを食べた。

 

うまく説明できないけど感覚的に「あーわかる」と思えるポイントが合うわれわれは、きっとこれからも夫婦円満だと確信した。

ソーセージは肉じゃないのか

先日、ある喫茶店でランチをすることになり、スパゲティーナポリタンを注文した。
 
私は肉と乳製品が食べられないが、ビーフシチューやピザトーストなど、どのメニューにも肉や乳製品が入っていた。その中でも「抜き」がお願いしやすそうなのがナポリタンだった。
 
「ナポリタンのお肉と、上にかかっているチーズを抜いてください」と注文すると、店員さんが「お肉はベーコンが入っていますが、ベーコン抜きでよろしいですか?」と言うので、はい、お願いします、と答えた。
 
店員さんはオーダー確認で「ナポリタンのベーコンとチーズ抜きをお1つ」と言ったので、安心してナポリタンを待った。

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ナポリタンをおかずに白ごはんが食べたい
しばらくして、お待たせしましたとテーブルに置かれたナポリタンに、ベーコンとチーズの姿はなった。
 
しかし、4切れのソーセージが乗っていた。
 
ソーセージって肉じゃなかったのか。
 
あるいは、オーダーを取りに来た店員さんはナポリタンにソーセージが入っていることを知らなかったのか。あるいは、料理をした人が、ベーコンが嫌いなお客に気を利かせたつもりでソーセージを入れたのか。
 
笑いごとのようで、笑いごとではない。
 
先日はインド料理店で出てきた2種類のカレーの片方に乳製品が入っている雰囲気を感じたので、店員さんに乳製品が入っているかどうか尋ねた。
 
入っていませんと答えが返ってきたけど、ちょびっと舐めてみて、やはり乳製品の雰囲気を感じたので食べてるのをやめておいた。しばらくして、店員さんが「乳製品入ってました!」と慌てて謝りに来た。
 
私はちょびっと舐めてやめておいたけど、ちょびっと舐めただけでも後で気持ち悪くなってしまった。もしもアナフィラキシーを起こしてしまうアレルギーを持っている人だったら、店の存続に関わる大問題になっていたのではなかろうか。
 
飲食に携わる人は、たとえアルバイトであっても、提供しているメニューに何が入っているか認識すべきだと思う。
 
アレルギーでなくても、食べられないものがある人はいる。「好き嫌いなく何でも食べましょう」という教育は正しいようで正しくない。感じ方は人それぞれなのだから、食べものの好き/嫌い、おいしい/おいしくない、食べたくてたまらない/どうしても食べられないというのはあるのが普通だと思う。
 
まして、食とは極めて個人的なことであり、思想や育った環境や経験などによっては違うし、違うのは当たり前。
 
食べものの好き嫌いはその人の価値観として尊重したいと思うし、尊重すべきだと思っているし、世界の憂慮するべき飢餓とは別のレイヤーで考えることだと思っている。

食いしん坊は前を向く

子どものころから、ときどき言いようのない虚無感におそわれることがあった。サーッと迫ってきては、サーッと通り過ぎていく感じ。

 

大人になってからもたまにあったけど、福島県に引っ越して夫と住み始めてからは一度もなかった。

 

しかし、数日前からまたあの虚無感がやってきている。これがマタニティブルーというやつだろうか。

 

初めて胎動を感じたときは感激して涙が出たけど、今は胎動に嬉しくなったりホッとしたりしつつも、ナゾの不安におそわれることもある。たぶん、未熟な自分のこの頼りないお腹の中に生命があることにおそろしさを感じているのかもしれない。

 

日中は私も動いているので胎動をなんとなく感じているくらいだけど、就寝時は胎動がはっきりと感じられる。お腹がうにょうにょ動いていることは赤子が元気な証拠でうれしい気持ちになりつつ、やはり同時に不安な気持ちも押し寄せる。赤子が動いていないと不安なのに、動いていても別の種類の不安が迫ってくるという不思議な感覚。

 

そんなとき、夫のいびきを聞くと安心する。いつもは夫のいびきがうるさく感じるのに。なんでだろう。

 

虚無感を吹き飛ばすために、翌朝起きたら何を食べようか、ランチは何を食べようか、夜ごはんは何を食べようかと考えるようにしている。梅を具にした大きいおむすびに胡麻をふろうとか、今日買ったスイカがおいしかったから明日も買おうとか、ゴーヤが出始めたから厚揚げと一緒に味噌炒めにしようかなあとか考えていると、楽しくなってくる。

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コロッケ1つ3000メートル

そういえば、就職活動で面接に落ち続けて心が折れそうになったときも百貨店に原付を走らせて好きなものを食べて、気持ちを持ち直した。その直後に受けた新聞社の試験と面接が通って無事に入社できたのだった。

 

大学時代の恩師は「食べることを楽しむ人は前向きになれる」と言っていた。たしかに、朝ごはんを食べたら「昼ごはんに何食べようかなあ」と楽しみになり、昼ごはんを食べたら「夜ごはんは何を食べようかなあ」と楽しみになる。

 

食べることは生きること。食のことを考えると、たしかに前しか向いていない。「今日は何を食べよう」「明日は何を食べよう」。なんて前向きなんだろう。

 

恩師からは「柏木さんはいつも食べることばっかり考えてるな」と言われるけど、それは「柏木さんはいつも前向きだな」と言われていることなのだろうと都合よく受け止めている。食いしん坊でよかったなあとつくづく思う。

かわゆいふりかけ

子どものころ、ドラえもん型の容器欲しさに、ドラえもんふりかけを買ってもらった。

 

ほかのふりかけに比べて「特別おいしい!」というわけではない。でも、ドラえもんを振ると、ドラえもんの口からふりかけが出てくるのが楽しく、ふりかけごはんを食べることが好きになった。

 

そもそも、当時はおかずがあまり好きではなかったので、ごはんにはふりかけがあれば良かった。

 

なによりも、ごはんを食べているとき、食卓にドラえもんが立っているのが嬉しかった。子どもがぬいぐるみを持ち歩く感覚に近いのかもしれない。「ごはんのおとも」というよりも、「ごはんの相棒」というかんじだった。

 

成長するにつれ、おかずも好きになり、食卓でふりかけを使うことはほとんどなくなり、母が作ってくれるお弁当やおむすびに使うくらいになった。

 

大人になってから、ときどき「ふりかけごはんを食べたいなあ」と思うこともあるけど、添加物というものを知ってからは、店の棚からふりかけを手に取り、パッケージ裏の原材料を見ては、棚に戻してしまう。

 

無添加の商品でも、なんで原材料に砂糖が使われているのかわからない。「でっかいおむすび」でも書いたように、甘い梅干しよりも、塩と梅だけのシンプルな梅干しが好き。同じくふりかけも塩気だけでじゅうぶん。

 

ないならば作ろうということで、以前に自分でふりかけを作ってみたけど、なんか違う。なんでかわからなかったけど、最近になって、ふりかけには「かわいさ」が不可欠なのだと気づいた。

 

私の中では「ふりかけ=子どものころの思い出」。ふりかけとは、かわいいもの。かわいくなければ、ふりかけじゃない。

 

食べる前からうきうきするような、かわゆいパッケージや容器で、原材料も良いふりかけ。そんなのないよなあ。

 

と思っていたら、あった。

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原材料は鰹節、海苔、塩だけ

京都「うね乃」の「梅しそ」と「おかかのり」。
まず、パッケージがかわゆい。原材料もとてもシンプル。

 

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原材料は、鰹節、フリーズドライの赤紫蘇・梅、海苔、塩だけ

このふりかけに出会ってからは、1杯目は白ごはんだけで食べ始め、1杯目の途中からおかずでごはんを食べ、おかわりして2杯目の最後にふりかけごはんというトリプルな楽しみができた。たまにふりかけをかけすぎて、ごはんを追加する。ふりかけがあると、おかずでお腹いっぱいにならないので、ごはんがいっぱい食べられる。ふりかけ、すごい。

 

食いしんぼう妊婦のわたしは、出産時の入院食がおいしいかどうか、ずっと気がかりだった。でも、このふりかけがあれば、たとえ入院食がイマイチでも、白ごはんをもりもり食べられるに違いない。ふりかけのおかげで出産時の心配事が一つ消えた。

でっかいおむすび

おむすび屋でおむすびを選ぶときは、「塩」と「シャケ」が断トツに多い。次に「おかか」。
 
「昆布」や佃煮系などのあまじょっぱい具材は、甘さとしょっぱさのバランスが好みと合わない場合も多いので、食べたいなあと思っても保守的なので避けてしまう。「高菜」も油っぽすぎるかもしれない…と思うと、やはり避けがちだ(シャケもやたらと脂っぽいのもある)。
 
ちなみに「ツナマヨ」を買ったことは一度もない。「明太子」や「タラコ」は嫌いじゃないけど、あまり選ばない。
 
王道の「梅」に関しては、梅と塩(と紫蘇)だけを使った梅でないと食べる気にならない。なんでハチミツとか異性化糖とかソルビットとか使うんだろう。「甘い梅干しでごはんが食べられるか!」とつねづね思う。
(ちなみに以前「甘い梅干しでごはんを食べる方法」という記事も書いた)
 
でも、じつは梅と塩(と紫蘇)だけの梅干しを使っているおむすび屋でも、「梅」を選ばない。きっと私は酸っぱいものが苦手なんだろう…と、ぼんやりと自己分析していたけど、最近になってその理由がようやくわかった。
 
昨年の冬に夫が京都の「梅宮大社」で宮司手作りの梅干しを買った。夫のお弁当やおむすびにちょっとずつ使っていたけど、先日、その梅を具材にしておむすびを作って食べたら思いのほかおいしかった。今ではほぼ毎日ランチは梅おむすび。梅宮大社の梅干しを食べきってしまったので、近所のスーパーで梅と塩だけの梅干しを買った。なんでこんなにおいしいんだろう、梅おむすび。
 
私が梅おむすびを好きになった理由は、おむすびの大きさにあった。私が最近食べているおむすびは、1個160〜170グラム。ちなみにコンビニおむすびは1個90〜100グラムらしい。ちなみに1個のおむすびに使う梅の量は、大粒の半分。このバランスがちょうどいい。

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この日のおむすびは160グラムくらい。徐々に巨大化して、今は170グラムくらい。
おむすび屋のおむすびのごはんの量では、梅が酸っぱくてつらかった。自分で作るときも1個130グラムほどにしていたので、同様に酸っぱくてつらかった。だから私は酸っぱいのが苦手なんだと思い込んでいたけど、単純にでっかいおむすびを作ればよいだけのことだったのだ。
 
「ごはんを増やすのではなく梅干しの量を少なくすればいいのでは」とも言われそうだけど、それはちょっと違う。梅をちょっと食べたら、白ごはんをいっぱい食べたい。梅干しの量も重要だけど、白ごはんの多さはもっと重要だ。
 
ちなみに、なぜ最近になっておむすびが巨大化したかというと、夫が田んぼで代掻きしながら食べやすいようにしたから。おむすびの包みをいちいち開いて食べることを考えると、大きなおむすびがどーんと4個くらいあったほうがいいだろうと考えた。そして、夫のおむすびのついでに作っている私のおむすびも自動的に巨大化した。
 
もうすぐ梅干し作りの季節。昨年作った梅干しは自分で食べることはほとんどないまま夫のお弁当で使いきってしまったけど、今年はでっかいおむすびのおかげで梅干しを作るだけじゃなくて食べるほうも楽しめそうだ。
 
おむすびのおいしさは、ごはんの食味やむすび方がクローズアップされがちで、それももちろんとっても大事だけど、具材とのバランス感もかなり重要だと思う。
 
先日、タッチパネル式の回転寿司に行ってみたら、「サビ抜き」のほかに「シャリ少なめ」という選択肢もあって驚いた。通常サイズの寿司でさえ、ネタが大きすぎてシャリとのバランスが悪いなあと思っていたのだけど、さらにシャリが少なくなったらもはやそれは寿司ではない。
 
インスタグラムなどで最近、ごはんよりも具材のほうが多いおむすびの投稿を多く見かけたり、炊き込みごはんを提供する店で具材が多すぎてごはんの満足感が得られにくいことも稀にあるけど、おむすびや炊き込みごはんは、あくまでごはんが主役。大きな口でごはんを頬張るのって幸せだと思うんだけど、それってマイノリティなんだろうか。