柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

のびたそうめんチャンプル

昼食に素麺をたくさん茹でておむすびをたくさん作ったら、素麺もおむすびも余ってしまったので、夕食に持ち越しとなった。

 

おむすびはそのまま食べるとして、素麺はどうしよう。ちょっと時間が経っただけで、すでにのびてしまい、固まっている。

 

そこで、冷蔵庫の中で中途半端に余っていたタマネギ、人参、ズッキーニ、ピーマンを胡麻油で炒めた後に、日本酒をかけてほぐした素麺を炒めて、チャンプルを作ってみた。味付けは塩こしょう。仕上げにちょっとだけ醤油を加えた。

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味をしめたので素麺はわざと多めに茹でようと思う

食べた夫は「うまい」「家庭料理っぽい」という感想をもらした。「『家庭料理っぽい』って…家庭料理だよ」と言いながら食べた私も「本当だ、家庭料理っぽい」と思ったので、そう口にした。

 

そこで、「家庭料理っぽい」とは何だろう??という疑問について、そうめんチャンプルを食べながら夫と考えた。

 

夫曰く、「クオリティーが低くてうまい」「ちょうどいいクオリティーの低さだけど、おいしい」「余り物で適当に作った、母ちゃんの味」「すげえうまいわけではないけど、料理に愛嬌がある」ということだった。

 

例えば、「お歳暮でもらったハムを分厚く切って焼いただけのハムステーキ」「残り物のごはんと卵とレタスだけで作った焼きめし」などなど互いに「家庭料理っぽい」ものを挙げては、わかるわかるーと言いながら2人でそうめんチャンプルを食べた。

 

うまく説明できないけど感覚的に「あーわかる」と思えるポイントが合うわれわれは、きっとこれからも夫婦円満だと確信した。

ソーセージは肉じゃないのか

先日、ある喫茶店でランチをすることになり、スパゲティーナポリタンを注文した。
 
私は肉と乳製品が食べられないが、ビーフシチューやピザトーストなど、どのメニューにも肉や乳製品が入っていた。その中でも「抜き」がお願いしやすそうなのがナポリタンだった。
 
「ナポリタンのお肉と、上にかかっているチーズを抜いてください」と注文すると、店員さんが「お肉はベーコンが入っていますが、ベーコン抜きでよろしいですか?」と言うので、はい、お願いします、と答えた。
 
店員さんはオーダー確認で「ナポリタンのベーコンとチーズ抜きをお1つ」と言ったので、安心してナポリタンを待った。

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ナポリタンをおかずに白ごはんが食べたい
しばらくして、お待たせしましたとテーブルに置かれたナポリタンに、ベーコンとチーズの姿はなった。
 
しかし、4切れのソーセージが乗っていた。
 
ソーセージって肉じゃなかったのか。
 
あるいは、オーダーを取りに来た店員さんはナポリタンにソーセージが入っていることを知らなかったのか。あるいは、料理をした人が、ベーコンが嫌いなお客に気を利かせたつもりでソーセージを入れたのか。
 
笑いごとのようで、笑いごとではない。
 
先日はインド料理店で出てきた2種類のカレーの片方に乳製品が入っている雰囲気を感じたので、店員さんに乳製品が入っているかどうか尋ねた。
 
入っていませんと答えが返ってきたけど、ちょびっと舐めてみて、やはり乳製品の雰囲気を感じたので食べてるのをやめておいた。しばらくして、店員さんが「乳製品入ってました!」と慌てて謝りに来た。
 
私はちょびっと舐めてやめておいたけど、ちょびっと舐めただけでも後で気持ち悪くなってしまった。もしもアナフィラキシーを起こしてしまうアレルギーを持っている人だったら、店の存続に関わる大問題になっていたのではなかろうか。
 
飲食に携わる人は、たとえアルバイトであっても、提供しているメニューに何が入っているか認識すべきだと思う。
 
アレルギーでなくても、食べられないものがある人はいる。「好き嫌いなく何でも食べましょう」という教育は正しいようで正しくない。感じ方は人それぞれなのだから、食べものの好き/嫌い、おいしい/おいしくない、食べたくてたまらない/どうしても食べられないというのはあるのが普通だと思う。
 
まして、食とは極めて個人的なことであり、思想や育った環境や経験などによっては違うし、違うのは当たり前。
 
食べものの好き嫌いはその人の価値観として尊重したいと思うし、尊重すべきだと思っているし、世界の憂慮するべき飢餓とは別のレイヤーで考えることだと思っている。

食いしん坊は前を向く

子どものころから、ときどき言いようのない虚無感におそわれることがあった。サーッと迫ってきては、サーッと通り過ぎていく感じ。

 

大人になってからもたまにあったけど、福島県に引っ越して夫と住み始めてからは一度もなかった。

 

しかし、数日前からまたあの虚無感がやってきている。これがマタニティブルーというやつだろうか。

 

初めて胎動を感じたときは感激して涙が出たけど、今は胎動に嬉しくなったりホッとしたりしつつも、ナゾの不安におそわれることもある。たぶん、未熟な自分のこの頼りないお腹の中に生命があることにおそろしさを感じているのかもしれない。

 

日中は私も動いているので胎動をなんとなく感じているくらいだけど、就寝時は胎動がはっきりと感じられる。お腹がうにょうにょ動いていることは赤子が元気な証拠でうれしい気持ちになりつつ、やはり同時に不安な気持ちも押し寄せる。赤子が動いていないと不安なのに、動いていても別の種類の不安が迫ってくるという不思議な感覚。

 

そんなとき、夫のいびきを聞くと安心する。いつもは夫のいびきがうるさく感じるのに。なんでだろう。

 

虚無感を吹き飛ばすために、翌朝起きたら何を食べようか、ランチは何を食べようか、夜ごはんは何を食べようかと考えるようにしている。梅を具にした大きいおむすびに胡麻をふろうとか、今日買ったスイカがおいしかったから明日も買おうとか、ゴーヤが出始めたから厚揚げと一緒に味噌炒めにしようかなあとか考えていると、楽しくなってくる。

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コロッケ1つ3000メートル

そういえば、就職活動で面接に落ち続けて心が折れそうになったときも百貨店に原付を走らせて好きなものを食べて、気持ちを持ち直した。その直後に受けた新聞社の試験と面接が通って無事に入社できたのだった。

 

大学時代の恩師は「食べることを楽しむ人は前向きになれる」と言っていた。たしかに、朝ごはんを食べたら「昼ごはんに何食べようかなあ」と楽しみになり、昼ごはんを食べたら「夜ごはんは何を食べようかなあ」と楽しみになる。

 

食べることは生きること。食のことを考えると、たしかに前しか向いていない。「今日は何を食べよう」「明日は何を食べよう」。なんて前向きなんだろう。

 

恩師からは「柏木さんはいつも食べることばっかり考えてるな」と言われるけど、それは「柏木さんはいつも前向きだな」と言われていることなのだろうと都合よく受け止めている。食いしん坊でよかったなあとつくづく思う。

かわゆいふりかけ

子どものころ、ドラえもん型の容器欲しさに、ドラえもんふりかけを買ってもらった。

 

ほかのふりかけに比べて「特別おいしい!」というわけではない。でも、ドラえもんを振ると、ドラえもんの口からふりかけが出てくるのが楽しく、ふりかけごはんを食べることが好きになった。

 

そもそも、当時はおかずがあまり好きではなかったので、ごはんにはふりかけがあれば良かった。

 

なによりも、ごはんを食べているとき、食卓にドラえもんが立っているのが嬉しかった。子どもがぬいぐるみを持ち歩く感覚に近いのかもしれない。「ごはんのおとも」というよりも、「ごはんの相棒」というかんじだった。

 

成長するにつれ、おかずも好きになり、食卓でふりかけを使うことはほとんどなくなり、母が作ってくれるお弁当やおむすびに使うくらいになった。

 

大人になってから、ときどき「ふりかけごはんを食べたいなあ」と思うこともあるけど、添加物というものを知ってからは、店の棚からふりかけを手に取り、パッケージ裏の原材料を見ては、棚に戻してしまう。

 

無添加の商品でも、なんで原材料に砂糖が使われているのかわからない。「でっかいおむすび」でも書いたように、甘い梅干しよりも、塩と梅だけのシンプルな梅干しが好き。同じくふりかけも塩気だけでじゅうぶん。

 

ないならば作ろうということで、以前に自分でふりかけを作ってみたけど、なんか違う。なんでかわからなかったけど、最近になって、ふりかけには「かわいさ」が不可欠なのだと気づいた。

 

私の中では「ふりかけ=子どものころの思い出」。ふりかけとは、かわいいもの。かわいくなければ、ふりかけじゃない。

 

食べる前からうきうきするような、かわゆいパッケージや容器で、原材料も良いふりかけ。そんなのないよなあ。

 

と思っていたら、あった。

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原材料は鰹節、海苔、塩だけ

京都「うね乃」の「梅しそ」と「おかかのり」。
まず、パッケージがかわゆい。原材料もとてもシンプル。

 

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原材料は、鰹節、フリーズドライの赤紫蘇・梅、海苔、塩だけ

このふりかけに出会ってからは、1杯目は白ごはんだけで食べ始め、1杯目の途中からおかずでごはんを食べ、おかわりして2杯目の最後にふりかけごはんというトリプルな楽しみができた。たまにふりかけをかけすぎて、ごはんを追加する。ふりかけがあると、おかずでお腹いっぱいにならないので、ごはんがいっぱい食べられる。ふりかけ、すごい。

 

食いしんぼう妊婦のわたしは、出産時の入院食がおいしいかどうか、ずっと気がかりだった。でも、このふりかけがあれば、たとえ入院食がイマイチでも、白ごはんをもりもり食べられるに違いない。ふりかけのおかげで出産時の心配事が一つ消えた。

でっかいおむすび

おむすび屋でおむすびを選ぶときは、「塩」と「シャケ」が断トツに多い。次に「おかか」。
 
「昆布」や佃煮系などのあまじょっぱい具材は、甘さとしょっぱさのバランスが好みと合わない場合も多いので、食べたいなあと思っても保守的なので避けてしまう。「高菜」も油っぽすぎるかもしれない…と思うと、やはり避けがちだ(シャケもやたらと脂っぽいのもある)。
 
ちなみに「ツナマヨ」を買ったことは一度もない。「明太子」や「タラコ」は嫌いじゃないけど、あまり選ばない。
 
王道の「梅」に関しては、梅と塩(と紫蘇)だけを使った梅でないと食べる気にならない。なんでハチミツとか異性化糖とかソルビットとか使うんだろう。「甘い梅干しでごはんが食べられるか!」とつねづね思う。
(ちなみに以前「甘い梅干しでごはんを食べる方法」という記事も書いた)
 
でも、じつは梅と塩(と紫蘇)だけの梅干しを使っているおむすび屋でも、「梅」を選ばない。きっと私は酸っぱいものが苦手なんだろう…と、ぼんやりと自己分析していたけど、最近になってその理由がようやくわかった。
 
昨年の冬に夫が京都の「梅宮大社」で宮司手作りの梅干しを買った。夫のお弁当やおむすびにちょっとずつ使っていたけど、先日、その梅を具材にしておむすびを作って食べたら思いのほかおいしかった。今ではほぼ毎日ランチは梅おむすび。梅宮大社の梅干しを食べきってしまったので、近所のスーパーで梅と塩だけの梅干しを買った。なんでこんなにおいしいんだろう、梅おむすび。
 
私が梅おむすびを好きになった理由は、おむすびの大きさにあった。私が最近食べているおむすびは、1個160〜170グラム。ちなみにコンビニおむすびは1個90〜100グラムらしい。ちなみに1個のおむすびに使う梅の量は、大粒の半分。このバランスがちょうどいい。

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この日のおむすびは160グラムくらい。徐々に巨大化して、今は170グラムくらい。
おむすび屋のおむすびのごはんの量では、梅が酸っぱくてつらかった。自分で作るときも1個130グラムほどにしていたので、同様に酸っぱくてつらかった。だから私は酸っぱいのが苦手なんだと思い込んでいたけど、単純にでっかいおむすびを作ればよいだけのことだったのだ。
 
「ごはんを増やすのではなく梅干しの量を少なくすればいいのでは」とも言われそうだけど、それはちょっと違う。梅をちょっと食べたら、白ごはんをいっぱい食べたい。梅干しの量も重要だけど、白ごはんの多さはもっと重要だ。
 
ちなみに、なぜ最近になっておむすびが巨大化したかというと、夫が田んぼで代掻きしながら食べやすいようにしたから。おむすびの包みをいちいち開いて食べることを考えると、大きなおむすびがどーんと4個くらいあったほうがいいだろうと考えた。そして、夫のおむすびのついでに作っている私のおむすびも自動的に巨大化した。
 
もうすぐ梅干し作りの季節。昨年作った梅干しは自分で食べることはほとんどないまま夫のお弁当で使いきってしまったけど、今年はでっかいおむすびのおかげで梅干しを作るだけじゃなくて食べるほうも楽しめそうだ。
 
おむすびのおいしさは、ごはんの食味やむすび方がクローズアップされがちで、それももちろんとっても大事だけど、具材とのバランス感もかなり重要だと思う。
 
先日、タッチパネル式の回転寿司に行ってみたら、「サビ抜き」のほかに「シャリ少なめ」という選択肢もあって驚いた。通常サイズの寿司でさえ、ネタが大きすぎてシャリとのバランスが悪いなあと思っていたのだけど、さらにシャリが少なくなったらもはやそれは寿司ではない。
 
インスタグラムなどで最近、ごはんよりも具材のほうが多いおむすびの投稿を多く見かけたり、炊き込みごはんを提供する店で具材が多すぎてごはんの満足感が得られにくいことも稀にあるけど、おむすびや炊き込みごはんは、あくまでごはんが主役。大きな口でごはんを頬張るのって幸せだと思うんだけど、それってマイノリティなんだろうか。

山田さんのおばちゃんちの麦茶

妊娠してからはカフェインを避けるために、コーヒー、紅茶、緑茶、ほうじ茶などをなるべく飲まないようにしている。

 

カフェインは食べもので摂取した鉄分を排出してしまうらしい。「気にしすぎでは?」と思う人もいるかもしれないけど、もともと鉄欠乏性貧血でもあり、昔は赤血球や白血球や血小板などあらゆるものが不足していたので、少しでも鉄分を保持しなくては…と思うと、やはりカフェインはできるだけ避けたい。

 

というわけで、自宅では、水、白湯、麦茶。カフェでは、ストレートジュース、ルイボスティー、カフェインレスコーヒーなどを飲んでいる。

 

麦茶を飲むと、いつも子どもの頃の夏の空気感がよみがえってくる。テレビでは「ミネラールむーぎーちゃ♪」のCMが流れ、家の冷蔵庫にはいつも作り置きの麦茶が入っていた。

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山田さんのおばちゃんちの麦茶はいつもキンキンに冷えていた

7月に入ると、小学校の下校時はいつも汗でびしょびしょだった。当時は、今の子どものように水筒を持たされていない。下校前に学校の水道で水をたらふく飲んでから帰宅しても、家に着くころにはのどがカラカラ。そんなとき、家まであと1分ほどだというのに、いつも立ち寄る場所があった。

 

それが「山田さんのおばちゃんち」。今のような小心者の私では考えられないことだけど、「おばちゃーん、のどかわいたー、むぎちゃちょうだーい」といつも開けっぱなしの山田さんちの玄関から大声でさけび、キンキンに冷えた麦茶を1、2杯もらって飲んでから、家に帰っていた。

 

大人になってから、普段はビールよりも日本酒が好きなのに、夏になるとキンキンに冷えたビールが飲みたくなるのは、子ども時代の麦茶の延長線にあるのではなかろうか…と思っている。同じ麦だし。

 

妊娠して食事の制限が出たり、食嗜好が変わったりすることで、新しい発見があったり、世界が広がったりしているなあと感じていたけど、よくよく考えると、こうしてふと昔食べたり飲んだりしたものを思い出す機会も増えているような気がする。

 

子どものころに食べたものの香りや味やエピソードから、時代や地域性を感じたり、親や隣近所の人の愛情を感じたり、あのころの空気感を思い起こしたり。好きだったものも苦手だったものも含めて、今にして思えば懐かしくて愛おしい。子どものころの食体験の大事さをつくづく感じる。

硬くならない団子

地元の花見に出店していた和菓子屋で、じゅうねん味噌が塗られた団子を夫に買ってもらった。

 

じゅうねん味噌が甘めなのは分かっていたけど、食べてみると、団子そのものも甘い。これならじゅうねん味噌を塗らずとも、そのままでおいしい気がする。

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硬くなり始めた団子が食べたい

端午の節句には別の和菓子屋の柏餅を買った。これもまたあんこだけでなく餅そのものも甘い。包丁で三等分に切って、あんこが詰まった真ん中部分を夫にあげて、端っこの餅部分を私が食べた。

 

最近の和菓子の餅は、時間が経っても硬くならないように砂糖が練り込まれているらしい。母は硬くなり始めた団子が好きなのだけど、「最近の団子は砂糖が入っているからいつまでも軟らかい」と残念がっていた。私も硬めの団子が好きなので、とても共感する。

 

子どものころ、実家近くの駅前に「都まんじゅう」というまんじゅう屋があった。店内でまんじゅうを焼く様子が外から見えるのも楽しい。カステラ風の生地に白あんが詰まっているまんじゅうで、私も私の家族も翌日に硬くなり始めた冷たい都まんじゅうを食べるのが好きだった。

 

今でも変わらず「都まんじゅう」は製造を続けているのは嬉しいけど、都まんじゅうはいつからか生地に砂糖を練り込み始めたようだ。その証拠に、昔のように翌日になっても生地が硬くならない。

 

メディアを中心に「あまーい」「やわらかーい」が褒め言葉のように使われているけど、「あますぎない」「かたい」の魅力もあるのに。砂糖が練り込まれた軟らかい餅に出会うたび、「お前もか!」と残念な気持ちになる。