柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

マイコンをなめていた

同じお米であっても炊きあがりは使う炊飯器によって変わる。

 

「おいしい」炊け上がりの炊飯器の「おいしい」は各メーカーが目指す「おいしい」になるため、やわらかめに炊ける炊飯器もあれば、硬めに炊ける炊飯器もある。

 

5万円、10万円以上のIH炊飯器や圧力IH炊飯器などが登場する中、マイコンは安さ重視の炊飯器という位置づけになっている。

 

しかし、夫のマイコン炊飯器がすごい。夫が20歳のころに東京で一人暮らしをしているとき、秋葉原のラオックスで友だちのコテ君と一緒に買ったTOSHIBA製。夫はもうすぐ35歳。15年愛用し続けた炊飯器は見るからに歳月を感じる。

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夫が15年前に購入してから愛用してきたマイコン炊飯器

当初、私はマイコンをなめていた。

夫と結婚してから炊飯比較実験をするためにTIGERの安くも高くもないIH炊飯器を2つ同型で揃えたので、炊飯器でごはんを炊くときはTIGERを使っていた。夫のマイコンは夫が好きな玄米を炊くときや、炊き込みごはんなど炊飯器ににおいがついてしまいそうな炊飯のときに使っていた。

 

ところが先日、やたらと疲れていた私は、なぜかうっかり夫のマイコンで夕食のごはんを炊いた。すると、絶妙な炊き加減でおいしい。

 

メーカーの癖でお米の味が変わってしまわないように、炊飯器で炊く時はいつも冷蔵庫でじっくり浸水したお米を早炊きモードで炊いているのだけど、2年ほど前に買ったIH炊飯器の早炊きよりも、15年前に買ったマイコン炊飯器の早炊きのほうがおいしいとは驚いた(われわれ夫婦の好みでは)。

 

一方で、高級炊飯器や最新炊飯器で炊いたごはんを食べて「おいしい!」という体験をしてみたいけど、まだできていない。以前にイベントで最新高級炊飯器で炊いたごはんを食べたけど、あんまり…だった。自分で買えばいいじゃないか!と言われそうだけど、炊飯器の中で何が起こっているのか見えない炊飯器はおもしろくないので、5万円も10万円も払って買う気にはなれない。

 

ちなみに、夫によると、このマイコン炊飯器は「愛情によっておいしく炊けるように変化した」らしい。そんなわけあるかいっと思っていたけど、夫が東京の風呂なしアパートに住んでいた時代から、故郷に帰ってもずっと春夏秋冬このマイコン炊飯器でごはんを炊き続けて生活を共にしてきたんだなあと思うと、もしかしたら本当に夫が言うようなこともあったりするのかもしれない…

「香り枝豆」と「豆ずり餅」

福島県・猪苗代町の町史の中に「釜井ほそば」という品種を発見した。わら細工用の品種だったそうだけど、わら細工の衰退とともに品種も衰退してしまったようだ。釜井ほそばの他にも、今では作られていないだけでなく、その名前すら忘れられてしまった品種がたくさん載っていた。

 

稲に詳しい農学者・佐藤洋一郎さんが「文化の多様性は生物多様性を担保する」とおっしゃっていて、私はこの言葉が大好きだ。つまり、わら細工という文化があるからこそ、わら細工に適した品種も存在し続ける。

 

先日、米農家である夫とお兄ちゃんに近所の飲食店「ドライブイン磐尚」から「香り枝豆」の栽培の依頼があった。この店の「豆ずり餅」はおいしいと評判。枝豆で作った餡を餅に絡める、いわゆる「ずんだ餅」だ。

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「ドライブイン磐尚」の香り高い「豆ずり餅」。手打ち蕎麦もおいしい

ドライブイン磐尚の豆ずり餅は、香り枝豆でないとダメらしい。ところが、これまで作っていた農家が高齢で栽培をやめてしまったので、夫と義兄に声をかけたそうだ。夫と義兄が香り枝豆の栽培を引き受けたことで、「豆ずり餅」の食文化や「香り枝豆」という品種が守られていく。農業ってなんて壮大な仕事なんだ。

 

昨年は、農家とお米の種交換をしたり、取材先で種を購入したり、夫と一緒に訪れた神社で古い品種の種籾を譲ってもらったりと、数十品種ほどの古い品種やめずらしい品種の種籾をほんの少量ずつ入手した。来週は苗箱に種まき。どんな多様な稲姿に出会えるだろう。生物多様性から文化の多様性が生まれたらおもしろいなー

あんパンの

私が購読している新聞には、俳人の坪内稔典さんがさまざまな人たちの俳句を1日1句紹介する「季語刻々」というコーナーがある。

 

先日、こんな句が載った。

「餡パンの 中の隙間や さくらさくら」

 隙間のあるパンが好きだという坪内さんは、この句に共感したそうで、「そういうあんパンは、どちらかというと安いパンなのだが、指でパンを押し、あんをその隙間に伸ばすのが私のひそかな快楽である」と書いていた。これを読んで共感する人も多そうだ。

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1874年に生まれたあんパンは「日本食」と言う人もいる

 そして、「サクラの候はあんパンがことにうまい」とも書いている。

 

なぜ春にあんパンなんだろう。店では「桜あんパン」なるものも見かけるけど、桜が咲く時期にあんパンがうまい理由がどうもわからない。新小豆の季節でもない。

 

調べてみると、1875年にあんパンにゴマやケシの実ではなく桜の塩漬けを乗せたものが考案され、花見のときに明治天皇に献上され、宮内庁御用達になったらしい。「桜あんパン」誕生のきっかけはわかったけど、それが「桜の季節といえばあんパン」につながるのだろうか。桜を見ながらあんパンを食べていると、桜の塩漬けとリンクするということだろうか。桜の季節にあんパンがおいしい理由が知りたい。

 

俳句も食文化の変化とともに移ろう。「カレーパン」とか「ラーメン」が登場してもおかしくない時代なのだなあと思うと同時に、歳時記を見ると、「生節」とか「あけび」とか「はったい粉」とか「葛湯」とか「卵酒」とか「粟飯」とか、目にする機会が少なくなっている食べものがたくさんあることにも気づき、なんだかちょっぴりさみしい気分になった。

 

というふうに、ずいぶんと抑えめに書いたけど、自宅ではもっと過激な発言を連発し、夫からは「思想が強すぎる」と言われた。新聞社に入社した直後、長老の校閲担当者から「自分の本棚を人に見せるな。思想がばれるぞ」と言われたことをなぜか思い出した。

タマネギの味噌汁

「おふくろの味」という言葉がある。

 

私は母の料理が大好きで、特に煮物系は母の味を再現しようとしている。中でも、煮魚は外食では「甘すぎる」と感じることがほとんどなので、実家に住んでいるときは家以外では積極的に煮魚を食べる気がしなかった。

 

でも、味噌汁だけは例外だ。

 

母は味噌汁に必ずタマネギを入れる。

 

私がタマネギの味噌汁を好まないことを知っている母は、いま私が実家に帰るとタマネギを入れない味噌汁を作ってくれるけど、母は「味噌汁はタマネギを入れないと物足りない」と言う。

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ごはんの脇には必ず味噌汁がないと落ち着かない(写真はフリー素材)

タマネギを入れた味噌汁を好まないのは、味噌汁が甘くなってしまうから。味噌汁は、しゃっきりしたものがいい。

 

自分では料理で半端になった野菜やキノコを味噌汁の具にすることが多いけど、シジミだけとか、ナメコだけとか、豆腐とワカメとか、大根と油揚げとか、具材は1、2種類のシンプルな味噌汁が好きだ(そういえば、ジャガイモを入れるときはタマネギが入っていてもいいよねと思えるけど、タマネギの量は少なめがいい)。

 

一方で、姉は息子や娘たちにタマネギの味噌汁も作ることもあるらしい。

 

家庭の味は必ずしもすべてが祖父母から孫、父母から子へと受け継がれるものではない。嗜好や手間や価値観や原材料の有無などの問題で、受け継がれるものもあれば、受け継がれないものもある。

 

姉の子どもは大人になってからタマネギの味噌汁を作るかもしれないし、作らないかもしれない。私の子どもがタマネギを何かの機会に知って、作るようになるかもしれないし、作らないかもしれない。

 

いま私たちが何気なく食べている、肉じゃがとかきんぴらごぼうとか、いわゆる「定番料理」は、家庭によって微妙な違いはあれど、いかにして「定番」になり得たのだろうか。タマネギの味噌汁のことを考えると、時代を経てもなお愛されている「定番」のすごさを思い知る。

おべんとうばこのうた

夫から衝撃の知らせが届いた。

 

「おべんとうばこのうた」の歌詞が、「♪おにぎりおにぎり」じゃなくて「♪サンドイッチサンドイッチ」になっているという。

 

調べてみると、サンドイッチ版は

 

「♪これっくらいの/おべんとばこに/サンドイッチ/サンドイッチ/ちょっとつめて/からしバターに/マヨネーズぬって/いちごさん/ハムさん/きゅうりさん/トマトさん/まるいまるい/さくらんぼさん/すじのはいったベーコン」

 

だそうだ。

 

ちなみに、従来のおにぎり版は

 

「♪これっくらいの/おべんとばこに/おにぎり/おにぎり/ちょっとつめて/きざみしょうがに/ごましおかけて/にんじんさん/さくらんぼさん/しいたけさん/ごぼうさん/あなのあいた/れんこんさん/すじのとおった/ふーき」

 

だった。

 

さくらんぼさん」なんて入っていただろうか。なぜか子どものころ歌った曲では「さくらんぼさん」と「しいたけさん」の記憶がない。 

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フリー素材写真の検索で「お弁当」と検索すると、ごはんとおむすびのお弁当ばかり出てくる。「お弁当」はまだお米が主流。

 それにしても、サンドイッチになったのはなんでだろう。

 

子どものころから、「お弁当」と言えば、「ごはん」か「おむすび」だった。幼稚園のころは、お弁当がサンドイッチという子はクラスに1人か2人しかいなかった。なんだかオシャレに見えたけど、情報が少ないはずの幼児が、なぜサンドイッチに「オシャレ」と感じたのだろう。おそらくサンドイッチを持ってきていた「ともこちゃん」の髪の毛が長くてサラサラで、いつも違う色の髪飾りをつけていたせいかもしれない。

 

私の思い出の母のお弁当は、ふりかけごはんだった。水泳の試合で持たされたのは、ふりかけを混ぜたごはんに、なぜか具まで入っているおむすびだった。「ふりかけか具かどっちかにして!」と思っていた。

 

今でもたまに思い出してその話題になると、母は「どっちかだけだとさみしいかなと思って…」と言う。母なりの子を思う気持ちだったんだなあと思う。ふりかけの味と具の味で白ごはんがほしくなるおむすびではあったけど、子どものころの大切なお弁当の思い出として残っている。

 

「おべんとうばこの歌」のサンドイッチ版に限らず、すでに朝食は「ごはん派」よりも「パン派」が多いのが現状だ。家庭での炊飯量も減っている。これからの子どもたちのお弁当の思い出の味は、お米じゃなくてパンになってゆくのだろうか。

 

食文化というのは、先人から受け継がれて受け継がれて受け継がれてきたバトンを私たちが受け継ぐことができているからこそ、いま触れることができている。

 

もしかしたら私たちは長年受け継がれて来たバトンを落とす世代になっているのかもしれないなあ…と何とも言えない気持ちになる。

白飯と酢飯

刺身と白ごはんを食べるならば、ごはんに刺身が乗った海鮮丼よりも、ごはんと刺身が別になった刺身定食が好きだ。

 

海鮮丼は、ごはんがあたたかすぎると、ごはんの上で刺身があたたまってしまう。さらにガッカリするのは、ごはんが酢飯だったとき。過去に「ライスとナン」でも書いたけど、寿司は酢飯でもおいしいのに、海鮮丼の場合は酢飯だとがっかりする。海鮮丼は刺身と醤油と白ごはんの融合がおいしいと思う。注文前に酢飯かどうかを確認して、「酢飯です」と言われたときは注文を断念する。

 

以前に静岡県の沼津漁港でメニューを見て、生桜えびと生シラスと鯵の刺身が食べたいなあと思っていたら、まさにその3種類が乗った「ぬまづ丼」なるものがあった。白飯か酢飯かを確認したところ、なんと焼いた鯵の干物をほぐして鯖の出汁を入れた炊き込みごはん。炊き込みごはんと刺身って合うのだろうか。醤油は使うのだろうか。

 

「白ごはんに変えてもらえませんか」と聞くと、できないと言われたので、ぬまづ丼はやめて白ごはんと刺身を注文した。

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注文を断念した「ぬまづ丼」。白ごはんで食べたい。

寿司は酢飯がおいしいと思うのに、海鮮丼はなぜ酢飯だと残念に感じるんだろう。

 

海鮮丼を見るたびに、上に乗っている刺身よりも、その下のごはんが白飯なのか酢飯なのかが気になってしまう。

食べ残しを食べる

子どもが食べ残したものを親が食べている光景に、漠然とあたたかいものを感じる。

 

子どものころラーメン屋に行くと、父は「瓶ビール」と「レバニラ」と「ラーメン」と「半ライス」を頼んだ。父がビールでレバニラを楽しんでいる横で、私は半ライスの上にラーメンの麺だけを乗せて食べ、残りの麺や具やスープはレバニラを食べ終わった父が食べる…というのが定番だった。

 

他の店でも私が食べきれないものは、いつも残り物を父が食べてくれていた。

 

私が箸を付けたものを食べてくれる……というのは、少なくとも私のことが嫌いではない証明であると感じる。親子ならば当たり前と言われるかもしれないけど(ちなみに母も食べてくれる)。

 

大人になってからは、焼いたブリやシャケを食べているときに父から「皮もちゃんと食え」と言われても、かたくなに皮を残している。すると、父が皿にべろんと残った皮を食べてくれる。

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魚の皮は苦手

先日、食事会であいかわらず焼いたブリの皮を残した私に「柏木さん、食べないの」と言って、ひょいと皮を食べてくれたある社長がいた。私は思わず「お、お父さん…」と心の中でつぶやいた。

 

私はおそろしくネガティブな人間なので、じつは常に「この人から嫌われているのでは…」と思うところから人間関係がスタートしているのだけど、ああこの社長からは嫌われてないと思ってほっとした。

 

昨晩、がんもどきを揚げたら、思いのほか大きく作り過ぎ、1個食べたらお腹いっぱいになってしまった。それでも目が食べたくて、お皿に2個目のがんもどきをとって、おろし生姜を乗せて、醤油をかけたところで、あ、やっぱりお腹いっぱいだと気づいてしまった。「これは明日食べる…」と言って残そうとしたら、夫が「明日はこっちの新しいがんもどきを食べたらいいよ」といって、醤油まみれのがんもどきを食べてくれた。

 

人生において「こいつの食べ残しを食べてあげてもいい」と思ってくれる人は何人いるのだろうか。人によって、「誰のでも食べられる」という人もいれば「いや、たとえ配偶者のでも食べない」という人もいるかもしれないけど。1人でも2人でも私の食べ残しを食べてくれる人がいることはきっと感謝すべきことなんだと思う。