柏木智帆のお米ときどきなんちゃら

元新聞記者のお米ライターが綴る、お米(ときどきお酒やごはん周り)のあれこれ

摂食障害時代のこと・その2「病気に気づく」

摂食障害時代のこと・その1「書こうと思った理由」からの続き

 

身長157cmで31kgまで体重が落ちたときは、見るかげもないほどガリガリだった。

頰はこけて、顔は青白かった。脚は「ポッキーみたい」(母)と言われた。

朝起きるたびに気を失って倒れていたが、気を失ったことにも気づかず、「なんで毎朝ころぶんだろう…」と思いながらも気に留めず、当時勤めていた新聞社に出社していた。

住んでいたJR大船駅近くのアパートの前には急だが短い坂があった。道路から少し下った木々に囲まれた静かな空間が気に入って借りていたのだが、坂を上ろうとすると足がぷるぷると震え、駅の階段を上ろうとしてもぷるぷる震えた。走る取材者を追いかけようとしても息が切れて脚が震えて走れない。

周囲の人たちは私をどんな目で見ていたのだろう。

新聞社では「飯食ってるか?」と聞かれることが多く、今思い出すと鏡に映った自分の顔はいつも青白くて頰の骨が出ていた。

ある日、当時の社長から社長室に呼び出された。わ、わたし何かしてしまっただろうか…おどおどしながら社長室を訪ねると、身体を心配され、当時の常務の主治医を紹介してくれた。結局、受診して検査をしても「胃潰瘍だった跡があるね」といったことしかわからなかったが、気にかけてくれた当時の社長の優しさが沁みた。

ある日、遠出した際、日帰り入浴施設の脱衣所で周囲の女性の裸を見て驚いた。「このお風呂、やけに太った人が多いなあ」と思っていた。

だが、80代ぐらいのおばあちゃんを見て驚いた。枝のような手足。でも、私よりも肉がある。

あれ?なんか、私の身体っておかしい?

自分の裸を鏡で見ると、とても同じ人間とは思えない。鎖骨、あばら骨、腰骨がはっきりと見える。両足をそろえて立っているのに、足の隙間から向こうの景色がよく見える。尻の肉がなさすぎて、普通に立っていても、肛門が見えていそうだ。いや、たぶん、見えている。

周囲の女性たちが、私の身体を見ていないふりをしながらチラチラと見ていることに気づいた。そりゃそうだ。肉が落ちすぎて、二の腕と手首の太さが同じだった。

でも、1日3食は欠かさずに食べていた。もともと、食い意地がはっている(と言うと、母からは「決まったものしか食べないくせに」と言われたが)。1日1食や2食なんて、人生の楽しみを減らしている!と思っていた。ただ、このときは1食の量が少なかった。ごはんは100グラム、きっちり計って食べていた。常に胃の調子が悪く、食欲がないときはごはん90グラムだったり、無塩の炒り豆をポリポリかじったりしていたこともある。ごはんをあまり食べない人にとっては90〜100gは驚かないかもしれないが、このときはおかずをほぼ食べていないし、調味料の摂取は皆無だった。

このお風呂で「痩せすぎ?」と、ようやく自覚し始めた。それでも、やっぱりまだ太っているような気もしていた。毎日体重計にのり、昨日よりも0.1kgでも増えていると、自分がダメなように感じてしまうのだ。どこまで体重が減っても満足できない。本当に何を目指していたのだろう。

そのうち、家族から「摂食障害」を指摘された。心療内科の受診を勧められた。でも、自分が病気であることをなかなか認められない。

「こんなに仕事への意欲があるのに!」と思っていたが、このころから、徐々に心臓が痛むことが多くなった。

ふとカーペンターズのカレンの死因を思い出したとき、初めて恐怖を感じた。

それからは追い立てられるように、近隣の心療内科を調べて電話をかけた。でも、どこも予約でいっぱい。泣きながら身長と体重を告げても、電話口の女性は「早くて半月後ですね」とクールに答える。

次々と電話をかけ続けたが、けっきょくどこもすぐには受け入れてくれない。信頼していた上司に泣きつくと、ツテを頼って心療内科を紹介してくれた。電話口の女性から「診察は2日後に」と言ってもらえて、少しほっとした。

受診すると、医師からは「なんでこんなになるまで放っておいたんだ」「いつ死んでもおかしくない」「気力だけで生きてましたね」と言われた。仕事が何よりも大好きで休日も取材に出かけたり取材のために本や資料を読んだりと仕事人間だったはずなのに、「明日から出勤停止」という医師の言葉に、肩にのっていたものがドサドサっと落ちた気がした。ほっとすると、身体中が痛くなってきた。肉がなさすぎて、座っていても寝ていても身体が痛くて眠れない。本当に気力だけで生きていたのだった。

冷めた煮えばな、炊きむらのある白飯

先日、渋谷区エリアで土鍋ごはんがウリの和食店に行った。

コースの途中で煮えばなが出てきた後、締めに白飯が食べられる。

楽しみにしていたのだが、出てきた煮えばなは冷めていてアルデンテ。

リゾットやパエリアのアルデンテはおいしいが、白飯のアルデンテは芯が硬く、ただの炊けてないごはんだ。

冷めた「煮えばな」

気を取り直して白飯を楽しもうと思ったが、運ばれてきた土鍋の蓋を開けた店員は、しゃもじを入れると、飯切りすることなくそのまま白飯を茶碗によそった。

飯切りは基本中の基本だと思っていたので、これにはびっくり。一緒に食事していたお米業界の方と顔を見合わせ、店員が部屋を出てからせっせと飯切りをした。

飯切りせず隅っこを茶碗によそってくれたが…

飯切り無しでよそってもらった白飯はまるで炊きムラを知るための試食のようだった。

少し前にも、同様に渋谷区エリアで土鍋ごはんも楽しめる和食店に行ったとき、店員が飯切りせずに茶碗によそった。お料理がとてもおいしいお店だったので、何かの見間違いかと思った。

私がこの話を伝えていたお米屋さんも銀座の和食店で飯切りをせずに土鍋ごはんを提供されたそうで、「初めて見た」と苦笑していた。

たくさん食べ歩きをしているわけではない私がここ最近で2度も飯切りなしの白飯に遭遇しているということは、氷山の一角なのかもしれない。

飯切りは、炊きムラを均一にしたり余分な水分を飛ばしたりと、お米の食味を左右する大切な手順。「あの〜飯切りしたほうが良いのではないでしょうか」とか言いたいけど、えらそうにそんなことも言えず、もやもやしながら帰宅するのであった。

摂食障害時代のこと・その1「書こうと思った理由」

摂食障害でお米を食べることができない」という相談を何度かいただいたことがある。

私は過去に摂食障害に陥り、31キロまで体重が落ちたことがある(身長157cm)。お米だけは安心感があって食べることができ、いわばお米が命を繋いでくれたわけだが、特定の食べ物に対する恐怖感は痛いほどわかる。摂食障害に加えて「強迫神経症」とも診断されたこともあり、病院で食事指導をされていたこともある栄養士の方からは「オルトキシア」を指摘されたこともあった。

当時、わらにもすがる思いで自助グループのような団体に電話で問い合わせてみたことがあった。どういう流れでどういうつもりだったのかわからないが「一生治りません」と辛辣な言葉をかけられて絶望したことを覚えている。

しかしながら、今ではずいぶんと食の幅が広がり、お酒も楽しめるようになった。でも、「治った」とは言わない。何をもって「治った」のかはわからないからだ。

今でも体重計は家に置かないようにしている。置いたらすぐに数字と闘い始めて体重が減っていくことがわかっているから。

それでも外食が楽しめるようになったし、海外でも食事が楽しめようになったし、食に関して社会での生きづらさはなくなった(たまに困ることもあるけど)。

摂食障害に至るまでの要因は人それぞれで、私自身も結局は摂食障害になってしまった直接的な原因がわからないままだが、摂食障害に悩み「一生このままなのでは」「治らないのでは」と絶望感を抱いている方のほか、そのご家族やご友人にとって何かしらの参考になれば…と思い、過去に綴っておいた記録から抜粋して、当時の出来事や心情などを少しずつブログに書いていくことにした。

「正月は特別だからな」

「一年の計は元日にあり」という言葉は「物事を始めるにあたって最初にきちんとした計画を立てるのが大切」という意味のことわざ。

1月7日で松の内が明ける

そうわかっていても「一年の計は元旦にあり」という言葉は文字面をそのまま受け止めると「精神的に追い詰めてくる言葉だなあ」と感じてしまう。元日にミスをしたり手を抜いたりすると、1年間にわたってそれが後を引いてしまうような気がしてしまうのだ。

そんなとき、いつも思い出されるのが伯父のこと。小学生の頃、伯父と2人で正月に出かけたとき、神社の境内にいた屋台でたこ焼きを買ってくれた。「普段は神社の境内では食べちゃだめだけど、正月は特別だからな」と伯父。2人で境内の隅に座って熱々のたこ焼きを頬張った。

家から神社まで行きはバスに乗ったが、帰りは2時間ほどかかる距離を歩いた。途中で休憩と称して回転寿司に入り2人で寿司を食べた。再び「正月は特別だからな」と伯父。「この色の皿だけ食べるんだぞ」と言われて2、3枚の皿を取って寿司を食べてからまた歩き始めた。

そういえば、横断歩道のないところで道路を横断するときも伯父は「正月は特別だからな」と言っていた。

伯父のこの言葉を思い出すと「一年の計は…」の息苦しさから解放される。

カスベの煮付け

今年は雪が多い。

先日は夫が不在中に娘と2人で車で出掛け、夕方帰宅すると雪で自宅敷地内に入れなくなっていた。路駐して、除雪道具を取りに行くために膝上まで雪に埋もれながら家に向かっていると、神奈川県に住んでいた17、18年ほど前に大学の卒業記念に青森へ一人旅に行ったことを思い出した。

青春18切符を使った鈍行列車の旅。1日1食は駅前の定食屋で食事をするというルールをもうけ、町の図書館で見つけた駅前食堂の本を手に3月のみちのくへ。

記録的な大雪でJR青森駅前は信号機まで雪が積もっていた。当時青森駅前にあった「一二三食堂」に入ると、壁に品書きがずらり。

どれを食べようか迷っていると、店のおばちゃんが「カスベ煮付け定食」をすすめてくれた。湯気が上ったカスベの身のとろりとした舌触り、骨のコリコリとした食感、優しい甘辛さ。それ以来、カスベの煮付けが好きになった。

当時スマホなんてものはまだなく、カメラで撮影した写真(をスマホで接写)。壁の右側に貼られている品書きの束は品切れ中。カスベ煮付け定食は850円。今なら焼きいかにも惹かれる。

こちらもカメラで撮影した写真をスマホで接写。当時は食事を撮影する習慣はなく、撮り慣れていない感がすごい(今もうまくないけど)。ちなみに普段は副菜が多い定食はあまり好きではないのに、この定食は最高だった。

近くの席でタバコを吸っていた常連風の男性客が「おれもそれもらおうかな」。聞けば北海道からの冬の出稼ぎ。当時「出稼ぎ」は昭和の話だと思いこんでいたので驚いた。

一二三食堂は地元の図書館から持ってきていた本にのっていたので、店のおばちゃん2人に見せるとそのページに若かりし日のご自分が写っていたそうで「若いわ〜」と喜んでおられた。

先ほどのおじさんはおばちゃんが手にした本をチラリとのぞいて楽しそうにしていたが、あとはタバコを吸いながらテレビを見てカスベの煮付け定食を待っていた。イチゲンに話しかけてくれつつも、必要以上に話しかけてこない距離感が絶妙に居心地いい。いい店は常連客もいい。あったかくて、明るくて、おいしくて、優しくて、言うことなしの店であった。

そして、「膝上まで雪に埋もれながら家に向かっていると、大学の卒業記念に青森へ一人旅に行ったことを思い出した」のはなぜかというと、その翌日に行った竜飛岬でラッセルを体験したから。

JR三厩駅からバスで竜飛岬最寄りのバス停に到着したはいいが、人が歩いた形跡がない。つまり雪で道がなくなっていた。

そこで、腰まである雪をかき分けて竜飛岬を目指した。誰もこんな季節に来ないのかもしれないなあと思いながら進み続け、ようやく竜飛岬に到着すると、土産物屋に店員さんがいたので驚いた。ここで買ったガチガチに干したタコがとてもおいしかったのだけど、今お取り寄せできたりしないのだろうか。

竜飛岬からの帰路、バス停で時刻表を見て愕然とした。数時間後までバスがこない。もちろん周りに喫茶店なんかない。天候は吹雪。そのとき、一台の軽トラックが走ってきた。すかさず、祈る思いでヒッチハイクすると、停まってくれた。地元のおじいちゃんは三厩駅まで乗せてくださった。

三厩駅に着いた後、周辺にあった食堂に入った。ラッセルで靴の中に雪が入って靴下がびしょ濡れ。店のおばちゃんがストーブの前に靴下を干してくれた。その間に、鮭のハラス焼きやいくらの醤油漬けがのった定食を食べた。そのとき撮った定食の写真を見るといかにもおいしそうなのだけど、なぜか思い出そうとしても定食の味が思い出せない。代わりにおばちゃんの優しさとストーブの暖かさが思い出され、胸の奥がほかほかする。この店の名前を覚えていないのだが、いま検索してもそれらしい店が出てこない。閉店してしまったのだろうか。

青森駅前の一二三食堂はずいぶん前に閉店してしまったそうで、カスベの煮付け定食を食べたあの短い時間が今でも愛おしい。

ちなみに新聞記者時代にカスベの煮付け定食の話を紙面のコラムに書いたら、接点のなかった役員の一人からエレベーターの中で「私もカスベの煮付けが好きでね」と急に声をかけられた。役員たちには正直言って苦手意識があったが、この人は良い人なのかもしれないと思った。

駅前食堂には出会えなかったが、「寺山修司記念館」目当てで訪れたJR三沢駅では、頰被りをしたいかにも寒そうな可愛らしいザ・雪国のおばあちゃんに写真を撮らせていただき、雪国を感じさせない常夏感溢れるスマイリーな米軍三沢基地の米軍人に写真を撮らせていただき、後から写真を見返すと同じ季節に同じ街で撮ったとは思えない印象を受けた。寺山修司記念館は入館から退館までずいぶん長い間見て回っていたけど客はずっと私1人で、カルメン・マキの「時には母のない子のように」をずっと聴き続けていると、なんだか不思議の国に迷い込んだような気分だった。

といった一連の思い出はすべて大雪とともにある。

今日で2022年が終わるが、今年の年末はあの青森旅を思い起こさせるボサ雪で、ずんずん降り積もってすべてを真っ白に覆っていく。

「人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ」(寺山修司

明日からは2023年。どんな一年になるのかな。

ごはんのおともをアップグレードする

先日「山角や」の水口さんにいただいた京都の漬物「すぐき漬け」。
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「生姜醤油に合いますよ」と教えていただいた通り、生姜醤油で和えてみたら素晴らしいごはんドロボーに。おむすびにも合いそう。
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山角やさんのおむすびを食べたり、今回のアレンジを教えていただいたりして、「ごはんのおともに対して受け身にならず、アレンジしてさらなるごはんのおともに仕立て上げていく」ことが教訓となった。
来年からのごはんのおとも探しがますます楽しくなりそうだなー

うれしい米と酒のギフト

先日、栃木県のブランド米「とちぎの星 食味コンテスト審査会」に審査員として参加した。

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県内には「とちぎの星」を使った日本酒を造っている酒蔵もあり、「とちぎの星」を食べて「とちぎの星」を呑むことができたらきっと楽しいだろうな。

たとえば、四合瓶の1本にはお酒、もう1本の四合瓶には白米を詰めたセットはどうだろう。「お米をすし酢と混ぜてお酒と一緒に楽しむ」のも良し、あるいは「お酒の締めのたまごかけごはんにして楽しむ」のも良し、というふうに簡単なレシピブックと合わせて。

「とちぎの星」だけでなく、「コシヒカリ」「亀の尾」「ヒノヒカリ」「ササシグレ」など、飯米で造ったお酒とお米のセットでもいい。

飯米だけでなく、「山田錦」「五百万石」など酒米を使ったお酒と酒米のセットでもいい。酒米はリゾットやパエリアで楽しむためのレシピを付け、白ワインっぽい味わいの日本酒と一緒にペアリングできたら楽しいだろうな。

こういうセットでいつも残念に思うのは精米年月日。常に売れ続ける人気商品でない限りは、お米は店頭で劣化してしまい、味が落ちてしまう。そして、精米年月日が古い状態で店頭に置かれたお米を見てしまうと、なんとなくその商品のブランドイメージも落ちてしまう。

予約注文で常にフレッシュな状態のお米と一緒に日本酒が届き、お米とお酒のペアリングの楽しさを堪能できるギフトがあったら、米と酒を共に楽しむ文化の醸成に少しは寄与するのでは…と夢が膨らむ。